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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

奇跡が奇跡じゃ無くなる日

主に強迫観念によってついこの前までの私の脳は「飽和状態」であったため、季節感・生きている実感・感動・本当の意味での落涙などが皆無であった。それがどうした訳か頭の中が俄然すきっとなり、念願のこれらの感覚が復活してきだした。そしてこれらの微細な感覚は「無意識」で感じるものである事が自分なりに分かってもきた。何でまたこんな事を書いているのか?それはやはり「奇跡は起こる」事を私の体験を通して頑張ってるみんなに伝えたいからである。
私はこの感覚の喪失後、もう一生このまんまじゃないかって諦めかけていた時期が17~8年ほどあった。本当に心の寂しい時期だった。どうすれば感情が元に戻るのか色々試してみたが、何をやってもこうなった原因すら分からない有様だった。答えは先に書いたような事だったのだと今は分かるが、当時は本当に暗いトンネルを手探りで歩いていた。余りの叶わない苦しさに、もう考えないで生きようと覚悟した時もあったが、やはり諦めきれなかった。
私の「奇跡」には、多くの人の尽力が関与している。両親が揃って私を導いてくれ、親戚も皆一様に好意的だったし、弟妹も自分たちなりに私を理解しようと努力をしてくれた。それらの方々の与えてくれた「大いなる安らぎ」の中で私は衣・食・住を繰り返し、心がいつの間にか要らぬ警戒をせぬようになり、安心し、安定し、快復した事によって、場合によっては治りにくい「強迫観念」がここまで良くなったのだろう。だから今後私が感じる「季節感等」は、決して私一人のものなのではなく、私にどんな形にせよ関わってくれた全ての人達が共有すべき「喜び」であると思っている。
私はつくづく「幸せな男」だと思うし、皆に「幸せな人」になってもらいたいと心から願う。

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全世界の人口分の1

私は「本当の自分」がきちんと見えているか時々不安になる。それがかなり難しい事であるのは分かっている。しかしその時の「心境」等によって、事実「偽りの自分」を見ている事は案外多い様だ。私の様な類の病を負った者にとって「自信を持つ」事は大切な事であり、それに反して「自信の無い」自分である事が得てして多いのは悲しい事だが、仕方が無い。
周囲からどう見られているかに終始こだわり、「本当の自分」を生きられない‥これは悲しい事だが、健常者も含め人間は周囲との比較を「自信の拠り所」とする場合が多い。でも人間って本当に比較なんて出来るのだろうか?自分より「良い」と見る存在がいるという事は、自分より「悪い」存在が必要となってくる。これでは永遠に「安定した自信」は得られそうも無い。
「皆同じ」。結局これが私の答えになった。個性は違う、性別も違う。生い立ちだって、思想だって違う。言い出したら切が無い人間の違いの中で、唯一同じモノがあるとすれば、それは「心」という事になるのではないか?そしてその心の「可能性・尊さ」に於いて人間みな「平等」である様な気がする今日である。生老病死を決して避けられない事も、それ故苦難から逃げられないのも「平等」と言える。
人間は「か弱い」がその反面、絶対に最後に「勝利する」存在であると信じたい。勝利とは人に勝つのではなく、自分の「誤った既成概念」を「打ち破る事」では無かろうか?私もそう信じて多くの仲間と共に「人生道」を駆け抜けていく存在であり続けたい。何とか自分らしく、希望を持って、自身を持ってこの後の「みんなで生きていく」嬉しさを味わいたい。

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悩みの原因は脳の疲れ

あまり具体的に考えた事が無かったが、この2日間位の間に「他の人から客観的に見た自分」という事を考えさせられる出来事が相次いだ。正直、かなりしんどかった。しかし次の段階に到達する為に通らなければならない関門であることはハッキリしていたので、積極的に自己考察を重ねた。その結果、私の分厚い「仮面」が見えてきた。私は仮面を自然とかむるので、内面の「混乱状態」が自他共に表面に現れにくい。それは良いことでもあるのだが、自分も他人も「欺く」事も多々ある。また、この仮面の頑丈さによって平成元年の『大爆発』が起きた可能性が疑われる。頑強な仮面とその裏の「素顔」のギャップが、人格の2極化を招いた事もほぼ事実だと考えられる。
大爆発、といえば今振り返って見るに、その時脳の異常により発生した『強迫観念』が、その後1番苦しめられた症状であった様な気がしだした。いつもいつも、表立っては見えにくいが、強迫観念ありきで非常に苦しんだ事が、一旦治りかけていたからとてもよく分かる。そして強迫観念が酷いと心にゆとりが殆んど無くなるので、つまらない人間になりがちだ。これも今だからこそ、自分を通してよく分かる。いっつも自分の頭に浮かんでくるものに忙殺され、その上その内容がこれまたどうでも良いような事ばっかりなので、泣けてくる。そして頭がパンパンになって苦しいので周囲の人に聞いてもらおうとするのだが、支離滅裂に一方的にわめいているだけだったりするので、本人は救われないし周りからも理解されるのは難しい。
以前にも書いたが、強迫観念は「浮かんできている内容」が重要な訳ではない。「浮かんできてしまう疲れた脳」が問題なのだ。それを患者本人が理解するのはかなり難儀で、しかしこの事実の認識がもっとも重要であるように思われる。奥が深いようで大して奥は深くないのかもしれないが、その強迫観念は本人にとって「至上」であると感じてしまう脳の病の特有の気持ち。ここら辺は一旦良くなってみないと周囲には説明の付けようが無いのは悲しいが事実のようだ。

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