神浦の海はブルーです! |
2011-05-25 Wed 12:12
祖母の7回忌と祖父の23回忌を、先日長崎市にて行った。私は発病以来、祈ったりお参りしたりするのが大変苦手だった。例の「強迫観念」のせいである。真剣にお参りしよう、しようと思えば思うほど、自分の本心では無い「場違い」なとんでもない思いが、横槍を強く入れてくる。父方の祖母が生きていた頃等は、祖父の仏壇に参りながら、仏壇を叩き壊すイメージや、事もあろうか祖母の首を絞める思いが浮かんで来たり‥もうお参り等やってられる状況ではなくなってしまって、またそんな自分が許せなくて後悔の念しか残らなかった。だから「お参り」が嫌で嫌で仕方なかったのだ。
しかし「一心」に祈りたい、とずーっと憧れ続けて21年間‥とうとうその時がやって来た!真に「お参り」出来る様になってきたのである!嬉しい、とにかく嬉しい。この状態でこその「心からの祈り」である。その祈りが叶うとか叶わないとかはこの際全く関係無い。自分自身の問題なのだから。お参りとは「内省」の行為であって、何か頼み事をする事ではない。だからこそ自分を見つめる上で、この「集中心」は本当に大切なのである。 佐賀の祖父母は自分たちの「血」の繋がった子供ができなかった。私の今回の外海町での祈りは、次に産まれてくる時も2人また夫婦で、今度は自分たちの「子供」ができますように‥そして私たち家族や親戚をどうか見守っていて下さい、といった内容だった。と同時に「私、ここまで回復しましたよ!」とも報告した。 集中して墓参りが出来る!こんなに嬉しい事は無い!こんなに気分の良い事は無い!ただ私自身の傍から見た目は21年前も現在も、「同じ人」に見える辺りが人間の心の「奥深さ」なんだね、きっと。とにかく何かに感謝する瞬間が最近とても多い。手前味噌だが良い事だと思う。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています スポンサーサイト
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緑の風・よぎる‥ |
2011-05-20 Fri 11:36
最近「頭に強迫観念があまり浮かばなくなった」とよく書いているが、これと、いわゆる『季節感的感性』の相関関係が、明白になり始めた。
私は16歳で統合失調症を発症した瞬間の脳に対する「ダメージ」により、ついこの頃まで「季節感」といった類の感性を殆んど喪失していた。発症するまでは「健常者」だったので、それがどの様なものかは知っている。だから余計にもどかしかった。色々と取り組んだりしてみたが、どうしても昔には還れなかった経緯もあった。 ところが、である!この様な「微細な感性」とは、心が「空白」であって初めて訪れる事が、脳機能の健全化によって「理詰め」で分かってきだした。己で「感じよう、感じよう」といくら気張っても、それは感じられないものであり、「無心」の時、フゥーッとそよ風が横切るような状況で発生するものなのだ。 昨夜も出先からの帰り道、夜車を走らせていて‥窓から「緑の匂い」のする風を感じた時、懐かしい母方の今は亡き祖父母の家の前の「畑」を連想した。その時もやはり頭の中は「無心」に限りなく近かったと思う。あれだけ求め続けた「この」感覚を、まだ断言は出来ないが私は取り戻そうとしている様だ。大変感激している。 「詩人」「絵描き」「彫刻家」‥彼らはこういった感性が傑出した人々なのだろう。「生きてる!」って奴だ。人間の最上位にランクされる「幸せ」の一つこそが、この様な「自然と共生する感受性を体感する」事である事は間違いない。逆に考えると、よく私はこの感性無しにここまで生きて来れたなと思う。金が「何億円」あっても買う事の出来ない体験を、私はこれから先重ねて行く事になるのだろうか!?ならば私は大変な禍福者でございます!そして最後に願い続ければ「奇跡は起こる」事を断言したい。天よ!ありがとう‥。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
頭・空っぽ |
2011-05-13 Fri 11:57
最近、如何にリラックスするかを趣味にしている。前から気付いていた事だが、「湯船に浸かる」のは睡眠と同じ位リラックス出来る行為の一つだ。風呂に入ると眠くなったりするから、効果倍増!これはなにも病人に限ったものでは無いが、「薬」よりよく効く様な気がする。
あと、前回書いた「洋楽を聴く」もとても良い。ボリュームは小さめで、私はテンポのいいロックを聴く事がとても多い。以前書いた様に歌詞の意味が殆んど分からないから、いらんこと考えなくて良い上に、テンポが良いので気分が安定する。私は今「グリーン・ディ」のアルバムを主に聴いている。 薬を最大限に活かす、という事にも最近力を入れている。薬を服用する目的が明確になった今、薬は強い味方である。特に眠剤を飲むタイミングと、飲んだ後の安静に注意を払っている。以前の様に服用した後パソコンを弄ったり、外出したりといった事はなるべく避けた方がいいと思っている。 頭に何も浮かんでいない、という状況に最近時々なるが、それはそれは気分の良いものだ。そんな時は仕事にも趣味にも集中出来るし、好結果が生まれる事が多い気がする。ネット麻雀等はそれが顕著に結果となって出て来るので、冗談抜きで「寝起き」に行く事が多くなっていたりする。 病気の酷い間中、自分で自分を掴みかねていたが、この頃は自分で自分をコントロール出来る瞬間が心なしか増えてきた。主導権を「奪回」しつつあるようだ。運命には翻弄されるだけだと思っていたが、今は何とか出来そうな気がして、少しワクワクしているところである。人間根無し草では無かったんだなって、ここまで導いてくれた「何か」に対して、深く感謝するものである。『無心』はいい‥。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
白眼視と私の母 |
2011-05-11 Wed 11:35
今朝、職場も間近の一般道。男の怒鳴り声が聞こえてきた。最初、喧嘩でもしているのかな?と思っていたが、どうも様子がおかしい‥良く聞いていると、意味不明な危険な言葉を不特定多数の通行人に、続けざまに発しているのだ。私も少しおっかなくなり、目を合わせぬ様、関わらない様その場をしのいだ。
しかしこれって!?重症の時の「俺」じゃねーか!こうも気色悪い、そして危ない雰囲気だったんだな。 そんな俺を四六時中相手してくれた母。思い返せばもう頭が上がらない!私にとって最高の幸せは、その母が今一応元気にしてくれている事だ。これから母とどれだけ一緒に過ごせるか分からないが、母に「何が一番幸せ?」って聞いたら「あんたが幸せになってくれる事よ」と言ってくれたので、俺は「メチャ」幸せにならねばならない。 以前働かせてもらった「P食品」の工場で、私は怒りが限界を超え爆発した事がある。その時に向けられた私に対する「白い眼」は、今思えば当然だったのだと今日改めて納得した。そんな人間が居たら誰でも怖いし、気色悪いもの。今まで根に持っていたその眼に対する思いが、逆に反省に変わる今朝の出来事だった。 うちの院長達は、否が応でもそういう「おかしな人」を診察せねばならない、苦労の多い職業に就いている。私には到底出来ない仕事だ。偉いと思う。 そしてとにかく‥親孝行しよう。常に初心に戻って親孝行しよう。親から貰った恩など返せるはずも無いが、とにかく孝行して行こう。それが母が言う様に「私が幸せになる事」ならば、バリバリ幸せになって行こう!と思う。今朝の「危険な人」に出会った事も、きっと偶然では無いんだろうな。ありがとう、出会い。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
ヒストリー |
2011-05-10 Tue 12:54
何故か今週は気分が気ぜわしい。色々行事があるせいもあるが、それだけでは無いようだ。頭の中から強迫観念が大幅に減っても、やはりずーっと楽とはいかない。何時もそうだが楽なのはしばらくだけ。いつの間にやらその状態が、悲しいかな「当たり前」になってしまう。
しかし、今回の「癒し」は流石に一時的なものでは無いみたいで、病の根幹に関わる大変大きなものだった。一朝一夕に至った境地では決してなく、またこれも周りの人々から戴いたものだった。自分は殆んど何もしていない。この事に関して、私はまた両親はじめ全ての関わりのある多くの人々に、感謝の念を抱くものである。 不思議な感覚に襲われる‥健康だった頃には果たして有り難いと思えただろうか?頭が静かな事を。一旦無くして奪還した境地だからこそ、心から嬉しいのでは無かろうか?余りに長い年月正常では無かったので、頭に何も浮かばない静けさが、逆に不自然な感じさえする。 私の「人間、変われる!」という想いを更に強くした今回の脳の変化。分裂病(昔はそう呼ばれていた)に対する治療の一環として、脳の前頭葉切除なんかが当たり前に行われていた不幸な時代があった事を思うと、何て幸せな時代に病気になったんだろう!と思わずにはいられない。変だが。 精神科は確実に進歩している。医師の臨床実績の積み重ね、そこから得られた情報による薬の大幅な改良・新薬の開発、社会の偏見の改善、その結果としての病人の症状の回復という事実の累積。過去に多くの犠牲を払ったからこその「今」であると、つくづくこれまた感謝でならない。 「気ぜわしい」位何ものぞ!しかし気ぜわしいものは、やっぱり「気ぜわしい」。正常でしょ? 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
すーん! |
2011-05-06 Fri 11:19
最近、この22年間考えられなかった様な状況が私に起こっている。『無心』である。意図的に頭に何も無い状態をとうとう創り出せるまでに、脳が回復したのである!強迫観念を無理矢理押さえ込もうとすれば、その「押さえ込む」という事象が、強迫観念に取って代わって頭を占拠する。これは「無心」ではない。今、自分で分析するに、この様に頭が変化したのは、ようやく脳の疲れが(もしくは傷が)平和な周辺の環境に救われ、取れたのだと考えている。普通に生きていたのではその事は最早当たり前だと思うのだが、失ってみると「当たり前」の事では無い、奇跡の様な事に感じられる。本当に関わっている全ての人々に「感謝」という言葉しか湧いてこない。このブログを通じてだが『本当に有り難う』と言わせて頂く。
「無心」とは、大変心地良いものである。座禅でも組みたくなる位、幸せな境地である。その上物事に対する「集中力」が格段に上がる。以前の私の「大運動会脳みそ」と比すると、同じ脳なのに全くの別物だ。しかしこれは案外普通の事では無いのかも、とも思う。「無心」を意図的に創るという行為自体、悪かった時期が無ければやらないだろう。健常者にとってそんなに特別な事ではないのだから。ただ私にとっては格別な事だし、もう病が云々というよりある種『人生学』的意味合いを確実に出している。 「心が平和なら、世界が滅びかけていても平和」‥そしてその逆も然り。これは私の病が教えてくれた大切な教訓であり、更には万人共通の理である気がする。運命に翻弄されて時として人間は心に痛手を受けるが、私は体験上「回復は可能」と信じている。相田みつをさんの名言を最後に引用させて頂く。 「幸せは人間のこころが決める」。苦労だらけだった相田さんは、やっぱり凄い。心から尊敬している。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
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