未来は僕らの手の中! |
2011-04-27 Wed 10:16
何がどう作用したのだろうか?最近人生の『主導権』を取り戻しつつある。今までほぼ「流されっぱなし・呑まれっぱなし」であった私の人生だが、ここに来ていくつかの選択肢が立ち現れる時が多くなった。とても新鮮な感覚で、この状況に至れた事が大変嬉しい。こんなのもう、この人生では不可能だと半ば諦めていたもんで、ね。
具体的には「楽な道」を選ぶか、「苦しくても正しい道」を選ぶかの2択が1番多い。「楽な道」の行き先は、余り好ましくない未来に繋がっている事が多くあるので、一時の誘惑に惑わされず「正しい道」を選ぶように心がけておりはするが、時折魔がさす事もある。でも他ならぬ自分が決断した事なのだから、良い意味で責任を負う覚悟は出来ていたりする。それにたまには「楽な道」を選んだ方が良い場合があったりもする。どちらにしても、判断を下す「さあどうするか?」という「間」が取れる場面が、以前からすると格段に増えて来ている。 「為されるがまま」であったころは、「何で自分の人生なのに、決まりきった道を歩かされてしまうのだろう?」と大変不自由に感じていたものだが、最近の私はそうは思わなくなってきた。舵取りがだいぶ利くようになり、運命から使命へと様々な事象が判断次第で転換出来るようになって来て、やっと「自分らしく」生きられるようになれた。人智を超えたこの計らいに正に「天に感謝」である。 自分の未来をその時の判断判断で変えられる力は、素晴らしい可能性も秘めている。ならば逆も然り。未来を握中に収めていると思うと、胸が高まって仕様が無い。何でこうなれたのかは分からないが、私に出来る事は皆にも当然出来る筈だから、人生は翻弄されるだけでは終わらないって事を信じて、自分で人生をプロデュースしてオンマイロードではつらつと楽しんで生きましょう! 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています スポンサーサイト
|
寂しかった事 |
2011-04-24 Sun 02:25
今日はさっきまで久々全国ネットの麻雀ゲームをしに、近所のレンタルDVD店に行っていた。何故「久々」だったかと言うと、半月ほど前あんまりおつむが機能していない時にやって負け過ぎて、最高「2段」に行っていたのに「3級」まで墜落してしまい、自分が「カモ」にされている事に気付き落胆して、自粛していたのであった。
「初段」に上がるまでは「~級」の人達が相手なので、割かしスムーズに勝ち上がれるのだが、「初段」に上がった途端「段持ち」に相手が変わるので、「カモ」られて「初級」との間を行ったり来たりしているのが現状。麻雀自体は小学生の低学年の頃、元「雀鬼」だった父にルールを教えてもらっているから、強くても良さそうなもんだが、何分メンツに恵まれず、実際の4人打ちは殆んどやっていない。いつもゲーム機が相手だったから、場すら読めない打ち筋になってしまう。凄く悔しいがハッキリ言って「弱い」。 その店は「本業と副業が反対になちゃってるんじゃないか?」って思うほど、ゲーム機を沢山導入しているが、麻雀を終え、DVDをながめていたら、私の今ハマッているアニメが目に留まった。今の私の約半分の長さの人生を終えて帰天したFの事を思い出していた。このアニメ、派手な「銃器での撃ち合い」が売りのちょっと危ないアニメなのだが、まるでFの為にある様なセンスを十二分に醸し出しているのである。 最近、Fが妙に懐かしい。そして私は生きていて、彼は死んでいる‥。彼が死んだ頃は心のゆとりが全く無く、何が進行しているのかさえ良く分からなかったが、今は少し理解出来てる。「生きる」と「死ぬ」という二つは、まるで正反対の事の様に感じるが、その本当のところは死んでみないと絶対に分からない。 苦しい時、たまにFの事を思う時がある。俺ってまだ生きてるんだな、ってね。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
好壮年から変な人へ |
2011-04-22 Fri 11:03
私は真面目な話を長時間続ける事が、発病以来あまり得意ではない。理由は頭が疲れてしまうから。そしてそういう事をすると話終了後、一人になると決まって関を切った様に「お馬鹿」な自分に変身してしまう。この自分は実に「低俗・かつ下らない」人格で、この落差というか変わり振りは到底同一人物とは思えないほどだ。
以前は私の中にこういった色々な人格が存在する事を、受け入れかねる気持ちが強かった。しかし今は「それも自分なんじゃないの?」と認めていたりする。本音と建て前等と言えるかどうかは別として「どの人格も自分」と思っている。それだけ心の許容範囲が広がったって事!?なのかな。「後退」はしていない様ではある。 無くなりつつある人格もある。「怒りの人格」「怨み・ひがみの人格」等である。これは喜ばしい限りである。だってこんな人格、あったって「百害あって一利なし」なのだから。これらの人格が表にしょっちゅう顔を出していた頃は、自分を疑う様な「悪い閃き」が盛んに強迫観念として心に湧いて、それはそれは厳しい状況が続いた。自分の「善性」を信じられなくなる事もしばしばだった。話し相手には常に罪の意識を感じていた。 自分の人格が比較的短期間の内にこうもコロコロ変わると、本当の自分って何だ?と考えてしまう。結果的に全部自分なんだけど、それは今でこそ思えるが当時の私には潔白さ故、絶対認められるものではなかった。ただ今となっては、良いも悪いも一緒に合体して、初めて人格が「統合」されて行くのかな、とも思っているので、自分全てを肯定できたらなぁ‥と目標を持ったりしています。 若年の時分は本当に分からん事が多い!特に10代は。何もかんも「一途」でありたいなんて理想があったりするもんな、無理なのに。あ~あ、そこら辺ホント参るね。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
脳!脳!脳!③ |
2011-04-21 Thu 05:19
疲れた脳の自分流休め方
③平穏無事な生活を目指し、且つそれに浸る(自分のペースをつかむ)事‥前述した②の項とは反対の事になるが、脳が休まるにはそれ相応の安定した環境と、期間が必要となってくる。脳が疲れているという事自体、心の不調和な状況が続いていた証であり、だからその病根を根絶する事は焦眉の課題となる。簡単に言えば「平和な家庭・環境」の創設が必要。周囲が安定すると「護身」の必要が無くなるので、脳は確実に休まる。 そしてその状況を「恒久的」に継続させ、脳を安心させ療養させる期間の維持も必要。これにより脳は元気に近付いていき、色々な諸判断も的確かつ迅速に行う事が可能となる。疲れも感知し易くなり、何より自分の「現状」がハッキリ認識出来る様になってくる。これはとても大切な事だ。 ④身体に適度な疲労を与える‥仕事などによって身体を動かしていると、考え事などしている暇は余り無い。しかも身体を使う事で、脳のフラストレーションを減らせる効果もある。「心地よい疲れ」という奴である。脳の働きと身体の動きの一致は、とても大切な事だと私の体験以前に、多くの著名な医師などが語っている。身体の疲れと脳の疲れは、必ずしも正比例する訳では無い様に思う。 ‥以上、列挙してみたが、この他にもまだまだ私が知らない方法も数多くあろうと思う。今はもう止めたが、私にとっての「ギャンブル」等もその中の一つだ。余りにお金がかかり過ぎる故、全くお勧めは出来ないが、脳を使うといっても要は「使う箇所」の問題であったりする為、難しいのである。ともかく幸せな暮らしが「脳」にとっては一番の「良薬」。浮かんでくる想いを否定すると二度手間になったりするから、自然体で行こう!良いも悪いも自分である事に変わりは無いのだから。(脳の巻・終わり) 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
脳!脳!脳!② |
2011-04-20 Wed 11:35
疲れた脳の自分流休め方
①睡眠をとる事‥まずこれが基本。でも病がひどい時にはそれすら難しかったりする。強迫観念による「フラッシュバック」等があると、それに囚われてかえって眠れない上に、頭が苦しくなったりする。こんな時が私も頻繁にあった。その対処法には(1)服薬をきちんと実行し(2)洋楽を聴きながら(邦楽だと歌詞が邪魔である)脳の関心を悩みからそらし(3)無理して浮かんでくる考えを、否定しようとしないでその状態状態に逆らわずいたほうが良い、と経験上思う。 ②脳の疲れる(回転が速くなる)場所・状態を避けられるなら避ける事‥これは個人・状態によって様々なケースが想定されるが、脳の疲れとは基本、目で見る事は不可能なので、自分が気遣ってやるしかない。ただこれが相当な難題で、そのスキルを体得するには失敗も含めた「経験」に因るところが大きい。私の例で言えば、ニュースを極力見ないとか、疲れ易い雑踏に調子の優れない時は近づかないとか、思想書等の難しい脳を使う本は調子が悪い時は余り読まないとか、である。 しかし、これは自宅療養中位の状況の場合の話であり、実際バイト等を始めるとこうは行かなくなってくる。脳の状態が厳しくても、勤務に出らねばならぬ状況に頻繁に陥る。そして金銭的に魅力的なバイトでも、無茶して飛びついてはいけない。一概には言い切れないが、「高収入=脳が疲れる」は常識だと思う。私の場合は今にして思えば、バイトが続かなくなる時はいつも、脳が疲れて「テンパイ」した時ばかりだった気がする。大変悔しいが、それが現実なのである。そのリスクの見返りが「収入」であったり、「自信」であったりしたのではあったが。 とにかく自覚が無いと、かなりヤバイ。他人から指摘を受ける事は稀だし、その時には「終わってる」時が殆んどだ。身体と同様、脳も見えないけれど疲れる。しかし筋肉等と違って脳は疲れるほど速く働いたりしてしまう。そこの見極めが大変重要になってくるのは間違いない。(続く) 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
脳!脳!脳!① |
2011-04-19 Tue 22:31
このところ、閃きは上昇傾向にある。で、今回はまた『脳』のお話。我々「入院クラス」の精神病患者は、決まってと言って良いほど病気の「原因捜し・犯人捜し」に躍起になっていて、考える事によってその謎が解明した時に、「治る」または「症状が改善する」と信じ込んでいる、というかそれしか治る道は無いと思い、皆必死だ。
しかし今だからこそ思えるのだが、精神病がこの世的には「脳の異常」から起こっているとするならば、上の様な行為は果たして如何なものか?脳は疲れて来ると様々な「思考障害」を乱発し、元々病でくたびれているところに追い討ちがかかり、更に強迫観念などが出まくる。しかも大多数の患者はそれが「脳の危機」と感じるゆとりが全く無いので、湧き上がってくるそれらの事象に雁字搦めになってしまってそれはもう大変な状態だ。 私は主治医のD院長がおっしゃっていた言葉の中に「縁側で日向ぼっこでもしながら、ボーっとしとくのがよかとぞ!」というのがあったが、正直、これを言われた当時は「先生はふざけているのか!?」とさえ思った。でも実は今だから分かるが「脳を楽にしてやんなさい。無理やり考えさせられて、苦しがっているのだから‥」といたわって下さっていたのだった。 元凶は病んだ脳から出る「様々な雑念」では無く、「病んだ脳」そのものだ。こんな単純な事に気付くまでに20年近く費やしてしまったが、私の病に対する「原因捜し・犯人捜し」はようやく終わろうとしている。新たに実践する事は、脳を如何に休める方法を見出すか、そして如何にして脳の疲れる状況を回避させられるか、という脳を意識した生活である。次のブログも『脳』について書こうかと思っている。発病から現在に至る「私の脳、回復録」なーんてね。(続く) 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
悲報に接して |
2011-04-19 Tue 04:47
悪意無き、偶発的大惨事。当然、加害者と被害者が出るが、人間、好きで加害者になりたい人などそうはいまい。私はそれを思うたびに、他人事には思えない自分を感じている。私も自分の運命を自分でどうする事も出来ない時期が長くあった。その体験上、そういった報に出くわすたびに、自分の幸運さに対して天に「感謝」せずにはおれない。生きている、のでは無くて生かされている、のだなぁとつくづく思う。とするならば、私は尚真剣に生きて行かねばならないと、密かに心に誓うものである。
天災・人災に関わらず、私がその場に居合わせないのは、自分に何等かの加護が働いているからだと素直に思うし、またそれは私がどうこう決められるものではない。加害者・被害者の心に自分の心を重ねてみると、心底肝が寒くなる。いつも書くが、当たり前は当たり前では無いと常に感じて生きている。何故私ではなく貴方が?と思う事だらけである。 「幸せを与えられた者」がその幸せを他に与えるのは、当然の責務である。恩恵を感じたら、それを自分だけに留めずにいたいものだ。その「真逆」の行為を、私は長いこと受けて来たし、今もいろんな人達から受けさせてもらっている。生かされている事はそれだけで、可能性に満ちているって意味で「幸福」なんだしね。 人間の「愚かさ」を「見えなさ」を分かっていながら、生きる事を許してくれている『天』という大いなる存在。自分の事だけにこだわりやすい私だが、今回の精神病という体験を通して、加害者と被害者の双方の気持ちが少しだけ深く理解できる様になった。様々な苦難にも、今は感謝の心が何処かにあるから、相対せるのかも知れない。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
お脳と一緒に! |
2011-04-15 Fri 12:04
長い事精神病やってると、色々「意味不明な現象」にぶち当たる事もある。3日程前から自分では原因らしい原因も特に見当たらないのに、病状が5~6年程「逆戻り」したかの様に、お脳の調子がとても悪い。「木の芽立ち」はこういう病気に良くないと言う「通説」が精神科にはあるが、それで片付けられるのもミョーにしゃくに障ると当事者である私は思う。ただ、院長に伺ってみると「患者さんの多くが苛々している」との事だから、やはり私の不調も「木の芽立ち」に由来するものなのだろうか!?いずれにせよ真相はいつもの如く「闇の中」である。
私の不調は今までの人間関係上、大体母に出る。「あんた、ここ何日間か人の事怒鳴ったりしておかしいよ!」と母に言われ、自分でも「心にゆとりが無い・将来に悲観的・人との比較をまた始めている・怒鳴りやすい‥」といった、以前の病状が悪かった頃の自分に一時的かも知れないが戻っている様な感じがした。人間ってつくづく自由に生きられないものだと、改めてため息が出てしまう。「脳」のちょっとしたコンディションの悪化によってこうまで思考、場合によっては人生ですら影響されてしまうのだから、本当に困ったものである。 そして更に困ってしまうのは、このブログに与える影響である。自分の「等身大」のブログを書くことを私はモットーとしているから、私自身が後ろ向きになってくると、ブログも正直「後ろ向き」になってしまう事が多くなり、読んで下さっている方々に「元気な言霊」が段々吐けなくなってしまうのである。「自分をたまには嘘ついちゃったら良いのに!」と叱られそうではあるが、そんなに器用では自分が無い事は大体分かっています、ハイ。 今までもこんな事は思い返してみれば多々あった筈なのだが‥平和になりすぎて今回戸惑っているって事が、成長の証なのかな?ハッキリ言ってよくわかんねぇ‥。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
国難・今私が出来る事 |
2011-04-12 Tue 11:36
今夜のテレビは「統一地方選挙速報」をやっていた。それを見ながら東北に想いを馳せてみた。「俺に何か出来ないのか?」と被災地を見るたびに、強い衝動が沸いてくるが、亡くなった方、その親族の方、無事でも何もかも無くしてしまわれた方‥正直なところそれらの方々の思いを酌むことなど、私には到底出来っこ無い。また、「あの方々に比べたら私は何と恵まれているのだろう」等と、思う事もおこがましい限りだ。
では、どうするか?私が思うに遠回りの様だが「今、私が出来る事を精一杯やる」しかないのだ。それは被災された方も、私たち遠隔地の者も程度の違いこそあれ、同じなのかも知れない。大変もどかしいが、やれる事をやって行くしかない。持ち場持ち場で被災地の復興を願いつつ、目一杯頑張って行くしかない。 それとは別に、私はあの『被災地の風景』に見覚えがある様な気がした。私が中学生の時、精神病院の保護室に叩き込まれた「あの」瞬間とだぶるのだ。ほぼ希望ゼロ、可能性ゼロと思われたあの時、今現在の私の姿はまず想像できまい。精神的にだが、あの荒野に自分の思い出が重なる。という事は、ぶっちゃけ被災地も復興するのだと確信出来る。生きてる限り、人間に「負け」も「絶望」も無いんだから。 でも、突然悲しい事って起こってしまうんだよね‥考えもしなかった事が。だから生きている今を、大切に一生懸命、感謝しながら過ごさなければいけないと、今回の震災で改めて強く強く思い直した。 日本人の「伝統と底力」を世界中に示さなければならないこの『国難』。1人1人の頑張りは、1億数千万の力となって被災地に向けられる、と固く信じて自分の生き方を改善しつつ、今の自分が出来る事を目一杯やって行く。そう誓う! 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
二択 |
2011-04-05 Tue 04:42
自分は殆んど向上していない様に感じるのに、年齢だけ増えていく。
人間、生まれたからには歳をとっていつか死ぬ、それは分かってる筈なんだけど、妙に焦燥感が増している。 果たして今度の人生は、一体何をしようとして生まれて来たのだろうか? 色々な人々の人生に於ける苦労・苦難に出くわす度に、それを考えざるおえないし、それに自分の人生を投影したりもしている。 そして私は動きよりも先に、考えの方が先にたつ事がとても多い。 だから「想い」に対して「行動」が追いつかず、「想い」が独り走りして不安の虜になったりしてる。 これは発病前からあった傾向で、発病後は更に顕著になり、今ではそうでもないがちょっと前まで「想念の人」になり、リアルに背を向けている事が多かった気がする。 病気柄、頭は速く回り続けているし、想念の洪水に呑まれ、いてもたってもいられない状態に頻繁に陥っていたのだが、最近ではそれもだいぶ落ち着いてはきた。 しかし、元々持っている特性だから、消えてなくなる事は有り得ない。 心配性と不安性、それらが大変強かったこの20年間余、何故こんなに形なりにも社会に出れたのか?それは一重に「負けてたまるか爆発魂」があったから。 でもこの「爆発魂」、扱いが非常に難しく、まさに諸刃の剣となりて家族や周囲に「甚大な」被害も与えていた。 長い自己考察の末、「爆発魂」の根源にある「怨み」「怒り」「劣等感」等が薄らぎ、それがほぼ無くなった状態が文頭の状態を作り出しているとも言え、果たして良い事なのか悪い事なのか、判断に苦しむところだが、ステージが一つ進んだことには間違いないだろう。 最近、特に文がまとまらない‥新しいステップが訪れて欲しい。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
苦難・区分不能! |
2011-04-01 Fri 11:48
病気と仕事。この関係はかなり難しい。私も退院以来、この2つの関係に悩まされ続けてきた。
無理をしないと仕事は出来ない、仕事が出来ないと当然収入も入らない。 分かってはいるのだが、脳の状態の悪さは他人に殆んど理解されない。この悩みは、精神病の患者の大多数が抱えている共通のものだ。 精神的に具合が悪いのに、それ故に健常者から「真面目で仕事熱心」と勘違いされた事も1度や2度ではない。ある会社では「正社員」に抜擢されてしまい、その後ストレスから病状が急激に悪化して、とんでもない事になったことすらあった。 30余りのバイトを経験したが、その大半の辞め際も本心ではない「嘘」をつかねばならず、相当無念な思いをした。未だに心の傷となっていたりする体験も多かったし、「真面目に生きてるのに何でこんな風になってしまうんだ?」と、病人の「本音と建て前」に歯軋りすることしきりだった。 でも‥この壁を超えないと、前へは進めないのが実情だ。事実、そうやってここまでやってきた。 この世に葛藤は付き物。元気な人も大なり小なりそうやって頑張っているのだ。病人だからといって負けられん。 仕事に限らず人間は絶えず「壁」に行く手を阻まれる。でも破れない壁は「無い」と信じている。命ある限り壁を破り続けて、自分なりの「1つ上」を目指す! 苦しさを感じられるのも、生きてる証拠。この際有り難いと思おう。 個々人を見てゆけば、苦しさに境界線なんて存在しないんだから。自分のメリットの方を見つけに行こう。 心のクリニック新しい風のホームページ ★ブログランキングに登録しています |
| 鉄格子の中から |
|