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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

行方不明

先日勤務先で、私が最初に入院「させられた」Y病院の入院案内書をたまたま見つけた。
その内容はH元年のそれと比べると、全くの『別物』。
それも驚いたが、あれだけいた重症患者は一体何処へ!?と思わず考え込んでしまった。
H元年当時は、Y病院はある意味「収容病院」の役割を果たしていた。
今の私でも、あの閉鎖病棟に1時間も居ようものなら、病気が逆戻りしちまいそうな超強力なメンツが、ひしめき合っていた。看護師もヤンキーっぽい人が多く、男性は半分位が「茶髪」だった様な‥。
それがここまで変わるのだから、ビックリして当然だ。
あれから22年、日本の「生涯入院」は諸外国から問題視され続けてきた。だから変化を付けたのだろう。
私の入っていた「地下室」も撤去されたのだろうか?
将来、我が子に「お父さん、こんなとこに入ってたんだよぉ~」と見せてあげようと思ってたのにな‥。
私がそこで最後に入ってた部屋は、老人4人に重度の人1人に+俺という構成だったが、殆んど死んじゃったかどっか行っちゃったかしたのだと思う。何てこった!って今頃思ってしまうよね。
大体そういう病院で寿命か病気で亡くなると、死亡欄の住所がその病院の住所になってることが多い。家族がいないか、見放してるって事だ。いかん話だな、それって。
その人等の無念さは計り知れない。だから私は環境に恵まれた者として、「そういう話もあるのだよ」とこうやってブログを通して、皆さんにお伝え申し上げる次第です。

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しあわせな「家庭」

今では当たり前になっているけど、平穏無事な生活が続く事ほど、精神病人にとって有り難い事は無い。
以前は家庭内が相当不安定で、とても苦しかったから「平和な心」は中々育たなかった。
しかし時間とは不思議なもので、常に全ての面に於いて「良くしよう・楽にしよう」という働きを担ってくれる。時間が薬、と言えるかも知れない。この治癒のしかたのグラフは、反比例のグラフの形に似ている気がする。
治り出すまでは徐々にしか上がっていかないが、一旦上昇しだすと「心の平安」は一気に勢いづく。
頭の疲れを癒してくれる「平和な日々」は、病人にとって計り知れない恩恵をもたらしてくれる。
精神病になる表向きの大きな原因の一つに「家庭内の問題・生い立ちの問題」が挙げられる時があるが、逆に精神病の治っていく過程に起きる「絆の再結・家族の再結」も見過ごしてはいけない。
共に病と闘った「戦友の絆」が深まれば、相互理解や共通のテーマが生まれ、病気をする前よりもより「家族らしい家族」へとランクアップできる。
苦難はただ人を苦しめるために存在するに有らず、である。
我が家では私が病気をする前の状態に戻りたい、等と考えている者は私を含め1人もいない。
病気をした事を肯定した上で、「今が1番幸せ」といつも感じて、感謝して生きている。
例え今は修羅場のような家庭であっても、頑張って努力、忍耐していれば、必ず報われる時が来る。
そう言い切れるのは‥私の22年間に及ぶ家族と一体となった「闘病生活」が、今現在こうして途中と言えど好転している実体験があるからである。
「諦めない」「投げ出さない」「絶望しない」生まれたからには「幸せ」になろう!

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あのね‥

まだまだ足りないが、昔の自分からすると、大分人の話を聞ける様になった気がする。
私の考えばかりを人に聞いてもらう事は、人にとって余り嬉しい事では無いと思うし、自分にゆとりがない証拠だとも思う。
人の話を聞くときに、出来るだけ注意深く、自分の事と摩り替えて照らし合わせて聞いていく様に、心がけようと常日頃思っている。
でも一番は、私がただひたすら人に話を聞いてもらいたかった頃の気持ちを、常に思い出しながら人の話を聞かせて貰うって事を大切にしている。
私が「目一杯」の状況だった時、一番嬉しくなった聞き方をしてくれた人の様になりたくて、日々努力精進中である。
とにかく傾聴。また傾聴。そうすると自らが学ぶべきモノが多くある事に気付く。人類皆それぞれの個性の元で、実に多様な考え方・価値観を持っている。それらには「ピン」も「キリ」も無く、ひとえに素晴らしい個性である。
その一つ一つを伺い知るには、聞くに限る。そしてこれが出来るかどうかが、病気回復のバロメーターだったりするのだ。
聞ける自分に近付いた事が、何より喜ばしいが、たまには人に自分の考えを打ち明けてみようとも思う。心のキャッチボールが大切だからね。

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怒り信じ?

暴力に対する「過剰性」‥私の場合、思い返してみれば、幼少期にもそれが見て取れる。
ニュースで殺人事件などの報道がなされているのを見て、制御不能の極度の「興奮状態」に陥った経験が、覚えているだけでもかなりあった。
何故そんな事になっていたのか、正直未だに理由が殆んど分からない。謎なのである。
表面の温厚に振る舞う優しい「私」と、全く別物のもう一人の「私」。
変に思われるかも知れないが、少なくとも発病するまでの私にとっての発揮したい人格は、断然後者の方であった。
そうであるが故に、表面人格に常に疑念を持ち、「本当の自分では無い」自分に自信が全く無いのは、至極当然であったと言える。
と言うか、「見えざる何か」によって押さえ込まれてしまっている「裏人格」を、何とかして「覚醒」させる事に、命懸けになっていたのは自分自身だったんだから。
しかしその「覚醒」は、「精神病に本人がかかる」という「暴走」にいつの間にやら摩り替わり、多くの傷や痛みを私や周囲にもたらして、そして消えた‥。
「エヴァンゲリヲン」の意味不明の「不快さ」に、似てる様な似てない様な、そんなニュアンスの話だよね。
表に出て来ない人間の「裏っ側」、その領域はある意味「現実より重い」し「現実より広い」、そんな気が今頃になってようやくする。

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夢の道

今日、母から頼まれて買い物に行った折、改めて自分の「対人緊張」が治っている事を実感した。
今でも色々な人が「対人緊張」で悩み、苦しんでおられるだろう。
私も長い時期、バスにも乗れぬ程「対人緊張」、いや「対人恐慌」があった人間だ。
当時は、今のように街を堂々と闊歩出来る様になるなど、夢のまた夢であった。
ひとえに「自信が全く」無かった。「劣等感」の塊であった。
今では「威風堂々」と風を切ってスーパー内を歩き回っている自分がいる。
何処へ行くにも「制約」が無く、好奇心の赴くままに何でも出来る!
こんな日が来るとはね‥頑張った甲斐があったってもんだ。
私も「人間」、貴方も「人間」。私に出来て貴方に出来ない道理は全く無い。
ただ、自分の体験上、期間は要すると思う。それでも治る!と私は断言出来る。
今この心境を貴方に共感して貰いたいが、それは出来ないかも知れない。
人間は気付かないが、絶えず変化して行く存在だ。それが止まる事は死ぬまで無い。
貴方といつか街を一緒に堂々と歩きたい。暗い時期を笑い飛ばしたい。
その「夢」は私の生きる力になっている。私に人間の「可能性」を示してくれる。
貴方方がもし今「対人緊張」と交戦真っ最中なら、その闘いの勝率は「100%」。
鉄板なのである。

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家族と当人

私にとっては、22年間の精神の闘病生活が、一般の人の言う「スキル」であると思う。これも前にも書いたと思うが、私も家族もある意味この22年間で、結束力が格段に強く、そして家庭内は温和になった。
前回の「ブレイン」で述べた脳の「休養」が、非常に取りやすい環境に皆の努力によりなれた。すると、相乗効果が起きる。私が休まれば家族も休まる。家族が休まれば、平和な時間が多くなり、私が更に休まる、といった具合にである。
精神病はその成り立ちからして、家庭環境が大きく関わっている為、当人の努力だけではらちが明かない場合が非常に多い。しかも当人は常にテンパリ気味だから、家庭・周囲の「概念改革」は大変重要な意味を持つ。今まで通りの当人との関わりでは、駄目だと思う。「概念を砕く」勇気を持って、改革を決行せねばならない。
そうやって暗中模索していると、徐々にだが光のかけらが見えてくる。どうにもならない修羅場が、どうにかなる修羅場となり、どうにかなる家庭環境になって行く。当人も家族も環境修繕にかかる時間は、原因をつくって来たのと同じ位かかる覚悟は必要になってくるが、その気概で臨めば必ず道は開ける。これは我が家では実証済みであり、情報の信頼度はかなり高いと思う。
常に「明るい将来像」を持ち、尚且つ厳しい現実に負けない「地道な努力」を続けるしたたかさと、とても長い時間に対する「忍耐力が」必要となる。当人も家族も頑張らなきゃいけない。でもそれしか道は無いし、みんなで笑いながら振り返りたいでしょ?きっと大丈夫!こんな私でさえここまで心が平穏になれたのだから。
私の家庭は元々「可も無く、不可も無く」といったごく普通の家庭。それでも厳しさを乗り越える事ができて、お互い頑張ってここまで来れた。これからは未開の地に「けものみち」を付けるべく、また家族一致団結して頑張る所存だ。
最後に家族に「本当にありがとう」。

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ブレイン

今朝、母と話していて、大きく得るものがあった。精神病と脳についての事である。
以前にも書いたが「自分の頭(脳)が異常をきたしている」という感覚を、本人が自覚するのは大変難しい。
むしろその「異常な脳」が次々と送り出してくる、思考や病的症状に取り込まれた事案の方を、本人は重視している場合が殆んどだ。
しかし事実はどうであろう?
私も今まで自分の病根の出所について「精神」とか「心」とか抽象的な観念しか、持った事が無かった。
でもよくよく考えてみると、少なくともこの世では「脳」を通してしかそれらは表せない。それが今朝まで「むな落ち」していなかったのである。
私が22年間苦しんできたのは、その異常な脳の状態から発しられる諸症状が、殆んどを占めていたと言っても過言では無い。ここには落とし穴があって、「異常な脳」で「自分の脳のおかしさ」に気付くという事は、不可能に近いのである。「異常な脳」から発せられる、思考パターン・病気に対する囚われ・根源の分からない強迫観念等、そちらの方に意識が傾いてしまい、肝心の「脳が疲れている」事に気付けない‥。
つい今朝までは、「精神病は形の無い病気」と思っていたが、実は「脳」という「臓器」が問題だったと分かり、突然考え方が180度転換した。疲れた脳を癒す、その為の「睡眠」であり「薬」であったのだ。
これが今まで分からなかった事を不思議に思われるかも知れないが、さっきも書いたように「異常な脳」が苦し紛れに発する、「情報」「こだわり」が、あたかも自分の考え・本心の様に思えて仕様が無かったのである。これは多くの患者に共通して言える事だと思う。
それ位「分りづらく」て「デリケート」な問題だが、私はこれからは積極的に「疲れていた脳」を休めて行きたいと思う。

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アンパンマンやってんだ!?

東北沖大震災から約10日、未だに助けを待っている大勢の人達がいる。
それと平行して、福島第一原発の命懸けの復旧作業が行われている。
どちらも速やかに事が良い方に運んで欲しいと、遠い佐賀からだけど願っている。
車での移動中に、カーラジオをつけてみたら、アニメの「アンパンマン」のテーマがかかっていた。
とても幼児番組の歌とは思えない、素晴らしい歌詞の内容だった。
「自分はさておき他人を助ける」アンパンマンはお腹の空いた人に、自分の「頭」をあげる。
被災された東北の多くの方々が、口々に「生きてるだけ幸せ」「私は良いからあの人を看てやって」とおっしゃられるその姿に、全く同じものを感じる。
土壇場で出る「ぐうの音」が、むき出しの「本音」であるならば、日本人は凄い民族だ!
そんな中、私はのうのうと生きているが、果たしてどうしたものかと考えてしまう。
それでも今回の災禍を受けて、人生観が大きく変化している部分もある。
永遠に続く「理想郷」等存在しない、という事実が改めて心にインプットされなおした。
そしてやはり災いは、いい人にも誰にでも起こるのが、この世だと厳しいながら認識した。
困難が団体で押し寄せて来ても、人間は過去の歴史に記述してあるとおり、何とかやって行く存在だ。
元には戻らない、それは私の精神病と似ているが、違った形の終着点は必ず存在する。
今は非難してバラバラでも、その心意気だけは人間から、何人たりとも奪えない。
私も「統合失調症やってもここまでやれたぞ」と上を上を目指して生きたい。

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鎮魂

私は一体何を体験して来たのだろう?と、自らに疑問符が付く毎日‥東北沖大地震の報道を見ていると、そう思わずにはいられない。
「死」より悲しい事は無い。
体験上それは身にしみて感じて来たが、そうなって来るといよいよ私は中心軸がぶれてしまって、自分の「立ち位置」がよく分からなくなってしまう。
自分なりに精一杯だった闘病生活‥しかし私は生かされている。
亡くなられた方々に、今世における未来は遮断されてしまっている。
両者には雲泥の違いがある。
私は何処かで、自分の闘病体験を慢心していたのか?
どう捉えて良いのか分からない感覚だ。
以前は自分より幸せそうな人は見えても、そうでない人は見ていなかった様な気がする。
それがどうだ、この事態を目の当たりにしてみて。
結局まだまだ私は「比較の世界」に生きていたって事なのだろう。
ただ今は、そんな屁理屈言ってないで、少しでも日本に寄与する事が求められている。
とにかくその任をまっとうすることに努めよう。
自分の事を考えるのは、ずっと先で良いのだから。
生きていられるのだから‥明日があるのだから。
亡くなられた方々のご冥福を、心より祈念させて頂きたい。
日本は生かされた我々が、きっと復興させていきますから、皆さん天国からお見守り下さい。

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がんばれ!東北!

先週、私が帰宅の為高速バスに乗っている最中に、大地震は起きていた。
あれから一週間‥今最大の焦点は「福島第一原発」になっている。
原子力の事は良く分からないが、相当危険な状態だとニュースでは連日放送されている。
しかし私はこの事に関して、海外のメディアが騒ぎ立てるのを止めて欲しいと思ってる。
あれだけの地震、そして大津波、火災‥果たして彼らの国で同じ事態が起こったら、どうなるのか?
日本と50歩100歩、もしくはそれ以下の対応しか出来ないのではないか?
自衛隊も機動隊も、そして警察も国民も、みんな自分の事など差し置いて、命がけで頑張ってくれている。
首相や大臣も、民主主義のもと国民が選んだ人達だ。
その人達の不手際は、国民の不手際でもあるのかも知れないから、責められない。
それよりも、日本人の道徳観念が健在だった事に、国民は誇りを持った。
土壇場でしか人間性は見えてこない場合が多い。
譲り合う心、感謝する心、諦めない心等、平素は隠れていた日本人の「美徳」が今はむき出しだ!
きっと原発も、日本人が知恵を絞れば最悪の事態は回避される筈。
離れた九州から被災地の本当の悲惨さ等、分かりはしない。
でもこちらはこちらで出来る事があるはずだから、わたしも今日一日頑張って働く。
飢えと寒さと、そして未曾有の災害に立ち向かっている多くの同胞に『光あれ!』。

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誇り高き民族

「日本人は忍耐強く、そして高潔だ」アメリカの新聞の見出しである。
こんな評価をして貰える「日本人」に生まれられて、本当に嬉しい。
また外国のメディアは、この状況下に於いて「略奪・犯罪などが皆無である事」に「日本人のモラルの高さ」を感じている様だ。
しかし、現場に行くことは出来ないが、状況は想像を絶するものだと思う。
私が何か出来ないか?と考えて、ペットボトルの水を36L収集所に持って行った。
自己満足かも知れないが、この際それでも良いだろう。
更にこの先、寄付、寄贈を自分の出来うる限り続けたい、そう願っている。
そして「日本人の力」は実は凄い。
明治維新の時も、空襲で焼け野原になった戦後も、神戸の大震災の時も、不断の努力で復興して来た。
そういう大変優秀な民族である。
いざ、まさかの時に結束出来る、それが日本人である。
西日本にはまだいくらでも余力が残されている。
いま避難所で、着の身着のままで寒さと空腹と、そして病状と闘っている皆さん、心から応援しています!
そして言うまでも無く、これは日本人の『総意』です!
どうか全ての被災された方々に、必要な救援物資が届きます様に祈っております!
私には私の分相応の事しか出来ませんが、目一杯頑張らせて頂きます。

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陽炎

昨日起きた東北沖大震災。
「その時・その瞬間」を私はテレビの映像で目の当たりにした。
瓦礫や木材や油が津波と共に家や車を、そして人を呑み込んでいた。
人間が命を落とす瞬間を見ていて、「こうもあっけ無く人の全てが奪われるのか!」と思い、平和ボケが吹っ飛んでしまった!
メディアが発達し、遠くの出来事がリアルタイムで分かる‥でも自然の脅威に我々人間は為す術が無い。
そして、その映像を見てからというもの、自分の病気をあらかた忘れている。
そんな事、取るに足らなくなってしまったのだ。
あの津波に呑まれたり、土地や家を失った人の中にも、今現在精神状態が極めて悪い人が大勢いるであろう事は、想像に難くない。
私は何か出来るのか、今必死に考えているが‥何せ一度も行った事の無い場所での天災なだけに、佐賀県庁に水等を渡しに行くくらいしか、覚悟が出来ていなくて被災者の皆さんに申し訳ない。
とにかく1人でも多くの命が救われる事を、ただひたすら祈るしか無い。
西日本ののん気さに自分も含めてだが、呆れる部分もあるが、1人1人の考えは皆同じであろう。
今後、自分の身も含めて何が起こるか分からない、という覚悟は出来る様にならないといけないと、改めて思った。
日本の底力を発揮出来るだけの力を、出せる限り発揮して生きたい。

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エリート病・うつ

人間、うつっぽくなるとお先真っ暗・八方ふさがりの様な、なってみた者にしか中々分からない「閉塞感」に、苛まれる時がある。「あれも駄目」「これもいかん」‥ただただ焦るばかりで、将来に対して不安を募らせ続ける。そんな時心は非常に心許無く、絶望感が漂う時さえある。外部に対しては堂々巡りの虚無的な愚痴ばかりこぼしてしまい、片や「自分はこう有るべき」という理想に雁字搦めになってしまう。ため息ばかりこぼして、事態が暗転するとしか考えられなくなる。こういう気持ちから「自殺」に至ったりする事もあるかもしれない‥。
私もこの傾向が顕著だった時期が、非常に長かった。というか未だに以前よりは軽いが、こういう気分になる時がたまにあり、なったらかなりしんどい思いをする。だからうつに関しては、単に「他人事」では済ませられない気持ちが強い。
だからと言って私は特別な解決策を知らない。敢えて言えるとすれば‥「思ってる程現実は重くない」って事と、「不安は想いであり現実では無い」ってのと、後は『薬を飲んで、寝る!』事位かな。何とも頼りなくてすまないが、それでも結構この3つは使えると思う。
しかし元気な人もうつ状態になる事はあるので、病人だから「うつ」なんだ、と悲観する事は無いと思う。しかもどこからどこまでが「悩み」で、どんな事を「うつ」と区切るのか?等、曖昧な部分も非常に多い話なので、希望を持てる余地はある。
うつ先進国アメリカでは、うつは「エリートの病」と認知されている。うつは治れば「人格を高める」とも言われている。そして最後にアフリカの人には「うつ」は皆無だそうだ。うつは奥が深い‥。

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これでいいのだ!

今思えば当たり前の人生って、一体どんな人生の事をいうのだろう?特に何も困った事は起こらずに、「一般的」な世にいうレールに乗って、平和裏のうちに一生を送る事なのだろうか?楽が生きている間中、継続する人生をそういうのか?
私が思うにそういう人生を送る人は、きっといないと思う。そしてもし仮に私がそういう人生を、最後まで貫いていたとしても、あの世に帰る前に大きく後悔すると思うのだ。
私如きに人生の真実の説明のしようは無いが、何時も書いている様にこの世は「生老病死」の法則が支配する、厳しい世界だと私は思っている。それは「生きている」全ての人類が、免れる事の出来ない定めであると感じる。
人の人生が羨ましいと思っている中は、本当のその人に心から出会えていないのではなかろうか?その人がどんな生き方をして来て、どんな事で笑って、そしてどんな事で泣いて来たのか‥それに思いを馳せる事を、私は出来ない時期が長くあった。
心にゆとりが無く、それが周囲との一体感を持てなくしていた原因だったとは、気付きもしなかった。自分の事で精一杯で、自分が救って貰いたくて、自分を分かってほしくて‥でもそこを通って来て、超えつつあるから、今の心境に成れたのだろうと感謝はしている。
どの人のどんな人生も、個性こそあれどその人にとっては「当たり前」の人生なのかも?苦が無ければ人間は変われないと思う時、自分も良い人生を送らせて貰っているなと、ふっと思ったりする最近の私である。


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ポロリと本音

過去の人生の「もしも~ならば?」は、私が一番考えない様にしている想いである。しかし、それと「夢」とは別物かも知れないと仮定して、情けないけれどこのブログを打ってみる事にする。
もし中学生の時、心の健全な安定した私だったならば?
私は勉強が英語以外は好きだった。英語も精神や家庭内が安定していれば、家での「予習・復習」が或いは出来ていたかも知れない。5教科のテストの時間はとっても楽しみな時間だったし、ライバル達との争いに良い意味で、闘争本能がむき出しになっていた。私は英語の点数さえ良ければ、もっと上が狙えた様に思う。勉強は7~8割は授業を受けて自分の力にしていた。当時のすさみきった我が家では、余り勉強が出来なかったが‥‥何だか疲れてきた‥。
やっぱ駄目じゃんかよ~!?もしかしての話なんかしたって何にも無いんだって!結論から申せば「佐賀県立N高校」にどうしても、どうしても、本当に心の底から行きたかった‥!ってとこにぶち当たるだけの与太話である。
「夢」とかそういう問題じゃないな、これは。人それぞれが持ち合わせている「宿命」なんだろうな。今の私はマジで『やってらんねぇー!!』と以前の様に、さじを投げかねない危うさは消えたが、相当苦痛を感じながら、この文章を書いているのが唯一無二のリアルだ。それ以外の「仮定」はやはり論ずべきでは無いだろう。
ただ‥心が泣いている‥みんなと一緒じゃなくて悲しいよ‥と慟哭していて、こんな私は一体何をする為に、この世に生まれて来たのだろう?と思った時、ふっと「僕らは泣く為に 生まれた訳じゃないよ 僕らは負けるために 生まれて来た訳じゃないよ」という病院の食堂で聞いた歌詞が浮かんだ。
ザ・ブルーハーツの最初の3枚(トレイン-トレイン)までのアルバムは、青年期の人達に時代を超えて勇気を与え続ける、素晴らしい内容を持っている。是非聴かれる事をお勧めする。

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バリウム美味い!

ちょっとした身体の異変が気になって仕様が無い症状を「心気症」という。これも私がつい最近まで悩まされ続けた症状だ。ちょっと胸が痛めば、心臓病ではないか?と気に病み、ちょっと腰の辺りが痛めば、腎臓が悪いのでは?と本気に気にしだす。精神状態の酷かった頃は、胃を気にしてバリウムまで飲んだりした。もちろんただの軽い胃炎だったのだが。
身体の異常を楽観視したり、不安を否定出来れば良いのだが、病人にはそれがとても難しい。不安が不安を呼び、最終的には「死んでしまうのではないか?」という思いに辿り着く。事実よりも不安、現実よりも恐怖が勝ってしまうのである。
不思議な話がある。風邪をひくと精神病の諸症状が、一時的に軽くなるのである。これは私も何度も経験したが、風邪の症状に意識が集中するために、精神病までに気が回らなくなるからだと言う。似た話で、あってはならない事だが、戦時中はうつ病や自死者が著しく減る、という奇抜なデータもあるらしい。
何かに一生懸命になってる時は、病にかまっていられないのかも知れない。だから私の場合もバイトをしだして少しずつ少しずつ、このような心気症を無視出来る為の自信を付けて来たのだろう。毎日が忙しくなった事が感謝である。
ただ‥このブログを書くきっかけになったのは、久し振りに出た「心気症」であったりする。今日は何か胸が苦しく、動悸がする様な気がする。狭心症ではなかろうか!?心筋梗塞ではなかろうか!?多分昨夜の「夜更かしによる寝不足」なんだろうけれど‥病人は真面目に悩んでるのだ。名残りを感じる。

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目・空中戦

私の経験からであるが、精神的な病を得ると、仕事やバイトで「テンパリ」易くなる。元から心にゆとりが無い状態に加え、強迫観念で未来の不安感を一人で勝手に増幅したり、病の為必要なスキルが不足していたり、更には対人緊張がある人は、それだけで1分1秒が健常者の「視線」との闘いであったりもする。
私も今でこそ巧く視線をそらしたり、合わせたり、間をとったり出来る様にならせて頂いたが、発病から15年間以上、対人緊張からの脱却は私の悲願であった。やはり色々な場所で色々な経験を積んで、自分に自信が付いた事が一番大きい。この悩みはかなりの数の精神病患者が持ち合わせていると思うが、対人緊張どころか「対人恐慌」ですらあった私が、今ならハッキリ言い切れる。「貴方も絶対治る」と。
強迫観念については、以前の比では無いにせよ今でも厳しい時がある。しかし、浮かんできた雑念を「表情に出さない・口にしない」が出来る様になれば、これに関しては周囲に不快感は与えずに済むようになる。それに強迫観念というもの自体は、健常者にも起こりうる事を忘れてはならない。
スキルの問題だが、精神病は死ぬ可能性は少ないが、治るのに異常に時間がかかる。私が主治医から習ったのだが、「治しながら、社会的適応力(社会性)を上げなさい」という『並立法』は、今考えてみれば実に正しかった。これは即ち「苦しくても出来る努力」をしなさい、というかなり難しい事を言っているのだが、社会復帰を真に考えるのであれば、少しでも出遅れを少なくすべきであり、病んだからといって人生終わりじゃ無いのだから、逆境に負けずあれこれチャレンジすれば、これも私の経験からきっと道は開ける、と言い切れる。報われない努力など無いと今は分かる。
私は人生の『摂理』とはどの人にも全く平等に、進むべき道を照らしていると信じて疑いません。

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紙一重

突然だが‥俺は弱い。ちょっと疲れれば病気の愚痴を並べ立て、世の中に迷いまくってのた打ち回っている。一体何処に出口があるのか見当も付かず、ナイトストーカーの様に暗闇を這いずり回っている。自分の真の理解者なんて居る筈も無いのに、そういう贅沢を望んでいる。相手の事等、理解する気もサラサラ無いくせに。
熊本で3歳の女の子を男が殺してしまう、という痛ましい事件が起きた。ニュースで映ったこの男の顔は、至って普通の『20歳の青年』である様に見えた。同時に裏の顔も自らの体験上、想像に難くない。
独善的・唯我独尊、小宇宙に迷い込んだこの男の精神は、巷の倫理観等関係無い暗く、孤独な世界に自らを置き、自分の誤った「世界観の中」で、この惨事を引き起こしたのだろう。今は自責の念すら無いかも知れない。自分の事と照らし合わせても、何か背筋が寒くなる。
しかし、如何なる理由があったにせよ、悪い事は悪い。被害者がこの後もし生きていたら、どれだけ世の為に有益であったか!その度合いを計り知る事は出来ないが、両方の立場に立つ者として心から冥福を祈る。
私は弱い。こんな事件が起こる度に自分の基礎理念が揺らぐ。3歳でこの子に果たして事件を避ける選択肢が有っただろうか?と考える。きっと無かったに違いない。じゃあ、人間って何だ!って考えてしまう。日本だからこれで済んでいるが、世界中の国々で起こっている惨劇を考えたら‥!?
俺は弱い。精神的にバイリンガル的立場を持っているが故に、何時もロダンの「考える人」の様に考えてばかりいて、動かない。正直言ってどう動いて良いかすら分からない。ただこの様な事件を起こさない自分の人間性に、すがっているだけである。

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昨日の今日の明日

『今』という状態に、人間は慣れる事が出来る。良くも悪くも人間は『今』に疑問を感じにくい。私の場合も例に漏れず、過去の事は思い出そうとしなければ、『今』の状況に不足を思って生活している事が多い。
でも実際は、過去から考えたら『夢のよう』な『今』なのである。望みに望んだ「生き天国」に生きていることを、感謝もしていない自分がここにいる。
私はこのブログを書かせて頂いている事により、過去の「振り返り」がかなり出来る。その『時間』を生きてきた事は、歴然とした「事実」であり、それらの「体験」は思い出そうとすれば、今でもかなりハッキリ思い出す事が出来る。絶望的な未来も描けなかった辛い辛い時間‥誤った思い込みから他人を病気の原因として恨みまくってたあの頃‥家の中が荒れ放題すさんでいた事等、思い返してみたら今の現状は正に『奇跡』だ。
宝くじの一等賞が当たっても、一月か二月もすれば心は少なからず変化しているだろう。そこまで劇的では無いにせよ、人間の心は風化する。いつも上ばかり見てるから、いつも自分に無いものばかりを目ざとく欲しがるから、自分の足場が上がった事が見えていない。「今日の当たり前」に感謝出来ない。
私も「昭和」までは一応「健常者」だった。だからその高さが「標準」と思い、病人になって「脱落感」に浸りきり、「昨日よりも良い事態」の今日に自然と気付いていなかった。常に「今日がゼロ」という思いに20年近くなれなかった。
これからはせっかくこの事に気付かせてもらったんだから、『昨日よりも1mmでも今日が上向いた』ら天に感謝していこう。口説くなるが「普通」は「普通ではない」のである。そして『一日一生』なのである。

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通勤行程

今朝は院長より早く職場に到着した。気分がうつっぽいので敢えて自宅を早く出る事にしている。今日は3月なのに寒く、あんまり重ね着をするものだから、思いっきり「丸っこい」容姿になってしまった。
乗り合わせたバスの運転手は、西鉄佐賀営業所では多分1人しか居ない女性の方だった。この方、とても感じが良く明るい人なので、私は何となくこの人と会うと「儲けた」気がする。
バスに乗ると、1番後ろの席を目指す。理由は簡単、いすを倒しても後ろは誰も居ないから、文句を言われずに堂々とゆっくり出来るから。
大体半々位の割合で、私は眠る。目的地は終点なので何も慌てる必要は無い。それにしても結構混んでいて、補助席が出る事もある。
終点に着くと、手洗いに行くかどうか考える。1時間以上乗っているのだから生理上当然だろう。特に私は普通の人が考えられないほど水分を摂取する為、情けないが「際どい」事になる場合が時としてある。幸いバスの停車位置から程なく「ゴール」は有るので、何時も何とかなっている。
Am8時頃でも、天神地下街は開いているが、店は殆んど閉まっている。雑踏の中を早足で北に向かう。階段は大体2段跳びで駆け上がる。すると「福岡中央郵便局」の前に出る。10時になればショッパーズが開くので、更にクリニックに近い場所に出れるのだが。
こうして私は通勤している。福岡はやはり佐賀とは全然違う。大概の物は金さえあれば揃うし、何より活気がある。働かせてくれている院長には「有り難う」の一言に尽きる。自分を向上させるにはもってこいの環境である。色々な意味で、私は恵まれている。

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肝っ玉

院長に「内面だけでなく、外の世界にも目を向けてみては?」との助言を戴いての、本日2回目のブログ。
確かに、余り外の世界のブログって、読み返しても書いてないよなぁ‥。外ねぇ‥また通勤路の「地下街」の話を蒸し返す訳にもいかんし、人付き合い狭いし、院長、どうもハードル高いっす!
でも探して見れば何かあるかも!?うーん、では「私の好きな料理」というのはどうか?(安直‥)
私は基本的に何でも食べる。特に外食に於いては、食べ物を残した記憶が殆んど無い。むしろゲテモノの部類に属しているかも知れない。
「虫」は流石に嫌いだが、マムシ・すっぽん・鹿の肉等は異常に食欲が湧く。その他にも「ダンス・ウィズ・ウルブス」(ケビンコスナー主演、滅びゆくインディアン達の物語)の水牛の狩りをするシーンで、ケビンの親友になったインディオが、生肝を切り出し丸かじりするのを見て、近くの肉の卸問屋に行って牛の刺身用の「キモの塊」を買い、道端で真似して食った事がある。
普通の料理で特に好きなものは、イタリア料理、と言うかチーズである。それが縁でピザの宅配のバイトを、暫くしていた事もある。しかしこの時の店長との相性が悪く、担当地区も地理が分かり辛かった為、良い思い出は余り無い。真っ暗闇の田舎の路地を、配達時刻もとっくにオーバーしていて、半べそかきながら目的地を必死に探し回った、そんな失敗談がいくつもあるバイトだった。
あと、干し肉やラム肉も大好きだ。馬肉も好きだ。コンビーフの原材料名の所に「馬肉使用」と書いてあるだけで、腹が鳴る位好きだ。結論・とにかく何でも好きだ。これからも感謝して食べ物を頂いていこう。

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みんな一緒!

現在私は一体何処に向かって進んでいるのか?それが分かれば良いのだが、暗中模索状態が続いている。
余り言いたくはないのだが、こういう処に囚われている事は「うつ」の様な気もしないではない。
去年の暮れ、いくつかの身近な出来事を契機に、かなり心が高揚した時期があった。今まで破れなかった「壁」がやっとやっと壊せた。とてもはつらつとしていた。
しかし、やはりと言うかその先にもまたもや「壁」が出現した。人間の人生ってこんなもん‥と覚悟はしていたが、この様に心境の浮き沈みが激しいのは、病気のせいなのだろうか?
私に限らず「精神病の人」は、何か起こると一様に「病のせい」にしたがる気がする。でも、健康な人でも同じ様に苦労はしている。むしろ健康であるが故に、逃げ場が無い場合も多いと思う。そう考えれば、私は少しずるいかも知れない。
「健常者ほど私は、心に体力が無い、ゆとりが無い」それはそうかも。しかしそう言っている内は、いつまで経っても自分の進むべき方向なんて、見えてこないんじゃ無いだろうか?
努力しても何処か抽象的で、確かな手応えも感じにくい「精神病」。病気の頭が自分の病状を考えなければいけない「精神病」。かなり手ごわい、ひどく手ごわい「精神病」‥。
私含め、数多くの人達が苦しんでいると思う。もうこうなったら「病」という枠を飛び出して、「人生学」と捉えたい。そして自分の事だけしか考えられない生活を、出来るだけ送らない様にして行きたい。健康な人が楽しい事だらけに見えるのは、「ひがみ」以外の何ものでもなく、そこは白黒はっきりつけるべきだと思う。それは反対に自分を楽にしてくれる考え方である。比較して落ち込まなくて済むからね。
皆、生きてりゃきつい事が多いのは、この世の常だ。それを前提に生きていけば、私の不足心は大幅に減っていく事だろう。がんばろう、人間!!

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ボリ!

今日から院長と友人の助けを得て、職場(心のクリニック・新しい風)でブログを書く事が可能になった。
そして、職場「初ブログ」は何にしようか?と今考えている‥。
これまで、自宅でのブログは最初の部分から中ほど位まで「実体験」を中心に書いて、後半は「自分の矜持らしき物」等を綴ったつもりである。
誰かが病の事を何か質問してくれたら、答えは出来ないがブログは書き易いかも知れない。しかし残念ながら私のブログのコメント欄は、わけあって今は閉じている。
またこのパソコンはノート型の物なのだが、パソコン業界に詳しい前述の友人から言わせれば、総合性能的に見て「店側のボッタクリ」の値段である、との事だ。自分のこの分野に関しての余りの見識の無さに一時期呆然としていたが、それでも何とかこうして一応「日の目」を見れたので、まあ良しとしよう。
正直なところ、今私は精神の停滞期に入っている。これはバイオリズムの様なものなので、心境は上がったり下がったりする事を繰り返す。だからいつもこのままという事は無いのではある。
とにかくこれからブログの更新の頻度は増すと思う。それに内容があるかないかは別として、その時々の心境を出来るだけ正直に書いていきたいと思っているので、皆様どうぞ宜しくお願い致します。
それにしても‥病気の酷い時は、次々怨み節が沸きあがってはいたが、どれも堂々巡りばかりで内容が乏しかったし、自分の事しか見えていなかった事を思い返して見ると、ブログというのは文字数が多ければ良い、というモノでは無い様だ。自らの人間性の向上こそが、文章を書くうえでも第一義なのだな、と改めて思った。

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