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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

強迫観念について

私の16歳の発病時からずっと続いている症状の一つに、強迫観念がある。
簡単に説明すると、いわゆる脳の疲れによって、自分では考え事をしたくない時に、ポンポン雑念が浮かんできて、苦慮する症状である。
更にこの『どうでもいい雑念』が浮かぶことによって、尚の事頭が疲れ、また浮かびやすくなる、という悪循環を繰り返してしまうのである。
昔からしたら相当に良くなっているが、昔が昔なだけに今でもかなりヤバイ状態にある。何せ自分の脳みそが疲れているのだから、逃げ場が無い。ひどかった頃は水の中に頭を押し付けられているような感じだった。窒息感があった。
いくつかの薬は有効な物がある。アナフラニール等であるが、今はもう外してしまっているので手元には無い。薬の他には「寝ること」が1番である。脳が休まるからだ。
そこで昨夜は20時に寝た。かなり悪かったから。ところが1時に起きてしまい、寝れないのでこのブログを打っている始末である。全く参る…。
浮かんでくる内容に脈絡など無い。言ってみれば「連想ゲーム」ってところか。Aが浮かぶとBが瞬時に浮かび、対処する間もなくCが浮かぶ。頭の中はお祭り騒ぎである。
慣れてる、と言えば慣れてる。でもとても対処に疲れる。だって四六時中なんだから。そしてこの状態で日常の「通常の思考」も行わなければならないのだ。
でも、ま、がんばろ…。

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登って登って…

きつい状態が当たり前になって、もう何年くらい経つのだろう…?
安定している、と言えばそれまでだが、最近身内にも愚痴さえこぼしにくくなっている自分がいる。
「過去のフラッシュバックがきつい」と言ってる人もいるが、私の場合それは強迫観念によって日常常時頭にもたらされる為、「前よりマシ」と言うだけで、心に安息は中々訪れない。
でも以前はそんな時愚痴を聞いてくれていた数名の人物も、私が愚痴りだすと「何を今更…」と殆ど請合ってくれない。私を「健常者」と勘違いしているようだ。
でも私にも責任はある。発病して今まで、「健常者」と認められる事を第一義として来たのだから。
この苦しみはこの手の病にかかり、「健常者」を目指す者の共通の苦痛であると思う。
「健常者」っぽく努力の末なれたとしても、傷痕を包み込む事が上手くなっただけで、過去・現在・未来に対する不安・恐怖等が訪れない日など、滅多に有りはしない。何時も葛藤の連続というのが正直なところであると思う。
しかし、他人と比べる事は出来ない。だって私の人生は「これ」なんだから。他人の人生も私が知らないだけで、大変な事は多いのだろうから。
人生は「未完の頂き」を果てしなく目指して行く修行なのだろう。以前は「あそこまで行けば!!」と苦しみながら辿り着いても、その瞬間からまた新たな試練が始まっている、という具合にね。

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変な宗教ではない

今までの苦労が報われる、そんな瞬間を得る機会があった。
人間、自分で生きているように見えて、実はその大方を目には見えない物に委ねて生きていると思う。その見えない物とは正に『天運』。言い方を変えれば自然界、そして自分に関わる人々の身を挺した努力、と言う事になる。自分の力などたかが知れており、これらの助力が無ければ今生きている自分の説明さえつかない。
だから感謝の念が沸々と湧いてくる事は、今まで気付かなかっただけで至極当然の事だったのだ。しかしそう思ったとき、それは決して自分だけの身に起こってる事ではないと感じた。帰りの地下街で出会うお一人お一人が、皆危なさ極まりない「綱渡り」をしている事に気付いた時、「どうかこの方に幸運を!」と願わずにはおれなくなってしまったのである。
そうすると…不思議な事に今まで断絶していた「心のネットワーク」が、一時的であるにせよ回復したのである。人の幸せを願える力こそ、言い換えれば自分の生きる力。「幸せに!」と願えば願うほど、自分に生きている実感と力と、そして『無限の世界』に存在している事の自分に対する幸せ感が限りなくよみがえってくる、という好循環が沸き起こる。
己はどこまで鍛えても、いい意味で「頂上」は見えない。それがまた良いのだな!

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透明な器

私は昨日は色々あり、あまり気分が優れなかった。しかし職場からの帰り道、明確に気付いた事があった。
「私は親兄弟・親戚・主治医・友人知人等に思いやってもらった分、ここまで回復する事が出来たんだな。この流れを如何に今度は私が他人に伝えて行けるかが、今後の人生の課題なんだな」と。
その行為自体が私の喜びであり、リレーの「愛情の」バトン渡し的生き方だと感じた。
苦しかった時の恩は、忘れ難いものがある。その時は分からなくても、振り返れるようになれた時、つくづく思うものである。「戴いた愛情は、そっくりそのまま苦しんでいる人に還元すべきだ」と考えた時、自分自身は「透明な器」のような存在に、なって行けば良いのかな?と感じた。
人間、精神的にも肉体的にもその成長には、他人の愛情が必要だと思う。確かに自分の苦難を他人のせいにしている間は、怨みつらみこそあれ周囲に感謝とか愛情とかは、自分の事しか考えられないので、全然湧いて来ない。苦しいから余裕もないし、世の中に対して不足不満を思い続ける。
しかし自分の心ににゆとりを持てるようになると、平穏の今が、決して当たり前では無い事に人は気付き始める。病苦を乗り越える醍醐味は、この心境に至る事だ!と言っても過言では無い。
人間、「生きてる」では無く『生かされている』存在なのだと、しみじみ思う今日この頃である。生きていられる今を感謝出来ずに何時感謝しようか!!

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また見ちゃいました

『夢』とは不思議なものだ。何十年経っても私のそれに変化はない。
大体小学校高学年の時期が出てくる。いつも出てくる面々は固定されている。寝る前は何も考えていないのに、無自覚に見てしまう。
口に出すのも嫌だが、私にとって相当厳しい時期だった様だ。恐怖体験なのだろう。彼らが心底怖かったのだろう。以前は絶対に認めたくなかった事を、こうやって書ける事のみが、成長の証?なのだろうか。
人間あんまり緊張や恐怖が続くと壊れてしまう。あの時期我が家は『四面楚歌』だったから、親に相談する事は殆ど叶わなかった。自分もまだ幼い部分が残ってるような状態で、問題を背負い込むだけの力量には、遠く及んでおらず、その付けが冒頭に書いた『夢』を見る事なんだと思う。
興味深い事に夢の中でも、私はどこか正常でない姿で登場する。もう彼らからしたら鼻くそのようにしか記憶に残ってないであろう『昭和の出来事』を、これだけ毎晩思い出している人間がいる…滑稽だが私はいい気が全くしない。忘れさせてもらいたいのに、脳裏に焼き付いてどうしようもない。これが人間なのか!?生きるって事なのか!?苦痛は続く。
人間は過去を忘れられない、のか?過去に打ち勝つ挑戦はずーっと続きそうだ。覚悟だけは出来ているが。

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