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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

私の価値は?

私は自らを「特別に苦労した」と思いたい癖がある。でも実際はそういう想定はありえない事も、分かってはいる。この執着から離れ難いのは、自分の価値が無くなってしまいそうで怖いのである。考えてみたらこの「特別な苦労」という事に、発病以来ずっとこだわり続けている。皆苦労するのがこの世なのに、そんな事はあり得ないのに、その事に酷く執着している愚かな自分がいる。
比較の仕様の無い事を考え続けていると、それこそ鬱になってしまう。でも今の自分の存在意義を考えた時に、目には見えない実績は残していても、具体的には「特別な苦労」を売り物にするしかない宙ぶらりんな自分がいる。もっと現実的な「成果」を見つけなければならない。
発病以来関わってくれた両親はじめ多くの人たちは、病気がここまで良くなった事が大変大きな「成果」だと言ってくれる。しかし自分ではその実感は正直殆ど湧いてこない。傲慢なのか何なのか…よく分からないのだが、マイナス100がマイナス10になったという感覚が正直なところである。
目には見えない何かを信じる、ということはとても難しい事だが、自分が努力・体験してきた事の大部分がそういった類いの事であった。ここに精神科の本当の難しさがある。目に見えない原因をもといとし、発病後も殆どが抽象的な事が続く。目に見えない気持ちや感情を、痛みと共に持ち続けるのが心の病の特徴である。だから自他共に相互理解が難しいのであると思う。
目に見えない事の大切さが私自身分かる様になれれば、今の苦痛からは少しは抜け出せるようになりそうなのだが…比較競争社会の中に身を浸していると、結果ばかりを追求しがちにならざるおえない。1番大切な「何か」を忘れているような気がしてならない。

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「空想」と「現実」

自分は妄想の世界に入り込んでしまう事を、自らの体験上かなり警戒している。現実が辛すぎて唯一自由がきく自分の妄想の世界に逃げ込む事は、誰でもやりたくなる事だと思う。しかし私はその度が過ぎて、現在まで続く「精神病」を育み作り上げてしまった苦々しい過去を持つ。
かといって余りに「写実的」にこの世を眺めるのも、これまた劣等感の塊である私にとっては相当に試練である。リアルに時の流れて行く現実を、病気はほぼ完治したものの、それまでに闘病生活によって莫大な時間を費やして、現代版「浦島太郎」となってしまった私が見るには、我慢できんほど悔しく、悲しく、寂しいのである。
我が家では、信じられないかも知れないが民放を殆ど見ない。私が出演者と自分をすぐ比較してしまい、まともに見ることが出来ない事が大きな原因だと思う。それに出演者達の「軽いノリ」にどうしてもついて行けないのである。別に彼らが悪いわけではない。それが「普通」なのだと思う。私は今まで深刻に深刻に生きてきた。それが良かったのか悪かったのかは分からないが、「普通」の世界と共通項が見出せないでいる様だ。
妄想の世界を諦めると、確かに現在の自分の「位置」はかなりハッキリ見えてくる。しかし自分の「一生懸命に生きてきた!」という自負と「位置」が余りにも食い違い過ぎて、憤懣やるかたない気持ちになってしまう。この世はこういうものなんだと、収まりが付いている時は良いのだが、生活全体の九割はその矛盾との心の闘いの日々である。「形の残らない努力」について深く考えさせられるばかりである。

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現実を肯定する事

きつい。色々な事、様々な事できつい。人に言えない事も沢山ある。人間、生きてりゃきつい事があって当たり前、そう自分に言い聞かせてもきつい。35年間生きて来て、何でこんなにきついのか自分の事なのに分からない…。
うつが酷くなってきているのだろうか?季節的な問題なのだろうか?過去の自分がしでかして来た後悔からだろうか?どちらにしても、心は良い方向には動いていないようだ。
私のブログを読んで下さってる方々にはうっとうしくて大変申し訳ないが、この精神状態も間違いなく『私の真実の一面』である。気が落ちてるからそう思うのかも知れないが、むしろ今までだって圧倒的にきつい事の方が多かった気がする。
周囲との比較を止められない、他人が羨ましくて仕様が無い、頑張りたいのに力が出ない、等々。
「全てが0に戻ってくれれば…!」とどれほど思った事だろう。「あの時ああしていれば…」とどれほど悔やんだ事だろう。しかし「今現在・今の現実」が全くもって『全て』であるという事から、目をそむけなかった態度が、私の成功の原因の一つであった事は紛れも無い事実だ。
「今」を肯定出来ないのであれば、自分に引きこもるか、もしくは世の中や人を恨んだり妬んだりするしか無いだろう。唯一無二の「今」に生きる事こそ、人という生き物の「本懐」ではなかろうか?もし…ならば、は自らの空想上の世界であって、現実では無い。事態を引き受ける強さを、様々なこの世の出来事による鍛錬によってつちかい、しっかりがっちりきつさを受け止めて行かねばと、つくづく思う今日この頃。まだまだ全然修行が足りてない…。

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熱さ忘れて…

「のど元過ぎれば熱さ忘れる…」まさに今の私である。「熱さ」とは闘病生活の事を指す。
何処か抽象的で自分に病識が無かったからなのか?はたまた病をごまかす事がある程度出来るスキルを持ち合わせており、周囲に病を悟られにくい、よって自分に対する周囲の反応が普通っぽかったせいなのか…?
正直、定かな所は良く分からないのだが、特に今となっては過去の闘病生活を生々しく思い出し、現在の状況と見比べる事によって湧いてくる、「治してもらった!」という「感謝・喜び」等を生きる力に加えていく事が、実は相当に難しい状態に現在ある。
これだけ「闘病生活」の事をブログを書いていても、である。自分としてはえらい大そうな闘病生活であっただろうに、大方治った「今」に幸せが、そして感謝が殆ど湧かないのである。
精神病は色々な意味で厄介だ。まず目に見えない要素が非常に多い。原因からしてハッキリとはせず、発病後も「自分」は「自分」なもんだから、周囲の反応を見て「鏡」とするしか自分を見る事は難しい。そして症状の悪化も改善も、これまた大変解りづらい。個人差もあり一概に他の患者との比較も出来ない。自分からも他人からも、病状の現在位置が見えにくい病でもある。
だから「治った!」という実感を持つ事が、とても困難なのであると思う。冷静に考えて見れば、「あの頃より随分良いよな…」とか思ったりする事もありはするのだが、上ばっかり見上げがちな自分からすれば、今の現状も「不足だらけ」なのである。
なお、私が以前書いたブログと趣きが相違する点が出てくるかも知れないが、日々心境が変化しているので、勝手ながらお許し願いたい。(続く)

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