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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

生きるって事について

日々生きている。目的も定かでは無く、人間に生まれたから生きている。只それだけ、かもしれない。もっと違った生き方があったのかもしれないが、現実大肯定からすればこの成り行きも必然なんだろう。違う「イフ」の人生の夢はいつも見るが…。
性格さえ違えばもっと楽な生き方が出来たのかも知れないが、それも「イフ」である。この状況下で勝負していくしかない、それが人生だと思う。受け止めるしかない。
工夫次第ではこんな私でも、もっと楽しく生きて行けるのかも知れない。マンネリにならず、視点を変えて生きて行く努力は、これからもして行かねばならない。どんなに不利でも「今世」という勝負、受けて立つしか無いし、出来るなら私も少しでも楽しく生きたいという願望は持っている。そりゃ当然だよね。
でも現実、辛い事の方が遥かに多い。これも人間らしいと言えばそれまでなんだけど…だからこそふっと不意にやって来る幸せな瞬間が、この上なく嬉しいんだな、きっと。
自分らしく生きたい。自分の能力を生かしたい。まだ他人の幸せを考えられる状態では無いけれども、いつかそうなりたい。自分の事ばかり考えている様では、まだまだだ。人から幸せを分けて貰うのではなく、自分が人に幸せを分け与えられるようになりたい。そのためにはもっと心を広くし、自分の人生にゆとりを持てる様にならなければいけない。そうしないと人の苦労は分からないと思う。
人生色々、誰もが皆様々な苦しみを抱えながら生きている。その心を知ろうとする自らの心をまずは耕して行かねばなるまい。

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「プライド」

「何でこんな事になってんだろ?」「俺が何か間違った事したか!?」「あの程度の奴らが何であんなに良い目みてんだよっ!」「口にも出す事の出来ないこの憤りはどーすりゃいいんだよ!?」「誰も俺の事正当に評価してくれない…」「もはや涙も出やしない」「この世では期待が持てない。あるかないか分からない死後の世界に期待を賭けるしかない!」等々、これ全部本音だ。それどころかこの100倍以上、世の中に言いたい事がある。
これらの雑念を抱え、それでも尚まっとうに生きていこうとすれば、大変大きな力が要る。私のその力とは、「生まれたからには生き抜くプライド」のみであると言っても過言では無い。今まで実に様々な困難・苦難に遭遇してきたが、この「プライド」だけは揺らいだ事が無い。どんなに追い詰められても、どんな修羅場が来ても、この「プライド」につかまってくぐり抜けて来た。
逆に言えば、私にこの「プライド」がある限り、私は潰れる事は無いという事だ。別にこの「プライド」は私だけが持ち合わせたものではなく、この世に生きる全ての人類に宿ってるものだと思う。これは言い換えれば「人間としての誇り・尊厳」とも言えるかも知れない。
最低最悪の事態が訪れても、生きている限り可能性は0%には絶対ならない。あがいてもがいて切り抜けて行くのだ!私に出来て皆に出来ない訳が無い。人間とは見た目とは裏腹に、無茶苦茶強い存在なのである。自分の力を遥かに超えた「何か」に生かされている、とさえ思う今日この頃の私である。その事に心の底から感謝で一杯である。

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風船爆弾②

「三つ子の魂、百まで」…。謎を解く鍵はこの言葉にあるかも知れない。誰しもが生まれてきた時には「真っ白」である。それが両親始め兄弟等の影響や、その時々の時代背景、生まれてきた国・場所等によって無自覚に染め上げられていく。
問題はこの「無自覚さ」である。上に挙げた条件を全く疑う事も無く、自分の考え方の基礎に置く事から人生が始まる。両親が不仲であったり、その時代特有の価値観念が唯物主義であったり、民族間の争いのある国に生まれたりと、そこに織り成す人間性の基礎は、1000人いたら1000人みんな違って来る。個性、という範囲で収まる場合もあるし、私の様に思春期にかけて精神を持ち崩してしまう例もあり、不公平感はこの世的に見る限りでは、どうしても否めない。
しかし一つ言えることは、「無自覚」故に何か困難な事が起こって初めて、苦労の果てに自分の「傾き」を見つけられる様になり、また「世界の諸相」を少しだけ垣間見る事が出来るという事だ。これにより人生は更に豊かなものとなり、「苦労は買ってでもしろ!」という格言の真意が理解出来る様になるのだと思う。
「風船爆弾」には、私の大切な「人生の目的」も一緒に入っているのだ。喜怒哀楽、今後の人生の中で起こる様々な出来事が、全て「三つ子の…」に含まれているとするならば、これは最早「偶然」では無く「必然」であると思う。と同時にそうであるならば、大いなる大宇宙のもと、人間に「不平等」等全く無いって事だ。それぞれが無自覚に染まる色にこそ、人生の目的が隠されているように思えてならない今日この頃である。

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風船爆弾①

私は必要以上に他人に対してへりくだった態度を、内心大変不本意ながら取るという、幼少期のトラウマから来ているであろうと思われる「悪癖」を持っている。
いくらへこへこしているように振舞っていても、それは「本意」では全く無い訳だから、いつも後になって後悔が自分の頭を駆け巡る。相手の傲慢さに、そして自分のふがいなさに、怒りがわき起こることもしばしばである。それでも相手には怒る事が出来ないでいる。
何故か?
自分でつかんでいる部分としては、言い争い・喧嘩のたぐいがとことん出来ない「感情の流れ・癖」を私が持っていて、それはハッキリとは分からないが「怒りの感情の調節」の部分に、かなり深刻な欠陥があった事だと思う。
相手が怒りだすと、無抵抗に縮み上がってしまう自分の態度が、物凄く自分の自尊心を傷つける。でも自分にはへこへこして、相手を怒らせないという手段しかカードが無い。その為に心が怒り・恨みの出口の無い蓄積によって、「風船爆弾」になってしまう仕組みである。
ご多分に漏れず、これは明らかに人格障害であると思う。しかし今現在思春期の青少年に於いて、この様な事例は大変多いように思う。私の様になる前に、果たして防げるものなのか?それすら明言できないが、この事について考えて行くことは、自己を知る意味も含めてかなり重要なのではないかと思う。

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心身ともに健康に

何を見ても、誰を見ても劣等感を感じる。親子連れをスーパー等で見かけると、「何で僕には彼女がいないんだろう?」から始まり、「何て高級車に乗ってるんだろう?」「子供なんて僕には一生縁が無さそうだ…」と、思いっきり凹んでしまう。
「それは病気したからしょうがないんですよ~」と自らを励ます言葉も出ては来るが、圧倒的な現実を前にして、ただただ呆然とその光景を見ながら立ち尽くすだけって事が殆どだ。
「自分は頑張った」とか「自分は良く耐えた」「自分は乗り越えてきた」等と幾ら思ってみても、この病には形が無い。原因も病状も、そしてそれに伴う苦しみも、健康な人に話してみても理解してもらうのにはとても難儀する。それは「見えない病」なのだから仕方が無い。どうしても抽象的な話になってしまいがちで、当事者達の多くがその壁に苦しんでるし、そのために自分の「ポジション」が分からなくなったり、自信をすごく無くしているように思えてならない。
目に見えて、手にとる事が出来るものが、必ずしも「その人」の全てではないのだが、あたかもそう見えてしまう節が大勢を占めている現実が、歴然とそびえ立っている。この問題は今後もそう簡単には解決はしないだろう。私も毎日毎時、ほぼその悩みでで頭を使っている1人だ。
今、ふっと「統合失調症」という病名に、意味合いを感じた。何よりも心と現実のバランスが大切なのではないか?と思ったのだ。妄想ばかりを逞しくし、現実に背き続けるならば、何時かは過去の私の様にその妄想に呑み込まれてしまう。かといって精神の豊かさの無い現実は虚しいだけだ。心身共に充実して行きたいものである。

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何故私だけ?

もうすぐ36歳になる。急ぎ足でここまで来てしまった。格段楽しい事や嬉しい事も無く、厳しい事が振り返って見ればとても多かった様に思う。「何故この人生を生きなければならなかったのか?」という問いに未だ答えは見出せていない。
心の中は混沌としている。努力が報われていない気がしてならない。それでも生まれたからには生きてなくちゃいけない。現実を直視すれば、心はパサパサに乾燥してしまう。辛いのだ、状況が。
しかし、こんな人生も有りなのだと思う。自分の苦しさばかりに囚われ続けるならば、他人の苦労など見えてこよう筈も無く、ただ自分の世界に閉じこもって妄想を逞しくするばかりである。冷静に考えたら苦労の無い、悲しみの無い人生なんて存在しないように思えてくる。かなり厳しい話だが。
この世の前提を「楽」と見るならば、恐らく不足・不満・憤りの心境を繰り返す人生となるであろう。それ位この世は各々にとって厳しい事が多過ぎる。逆に前提を「苦」と覚悟しておくならば、不意に巡ってくるつかの間の「幸せ」に対して「感謝」さえ出来るのではないか?個人的意見で申し訳ないが、私は体験上ある程度そう確信している部分がある。
命が終わるまで「苦」の世界を必死に生きて、皆の「苦」も引き受けられる位、強く強くなりたい!皆の苦労を感じ取れる「心の感覚」をまず身に付けたい。小さな「自己」の囚われの壁をぶち破りたい。そして…周囲の人々と心をやり取りしながら、懸命に生きていきたい!弱音もしょっちゅう吐くと思うけど。

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