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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

青空

ここまで病が回復した事は、何にしても有り難い、の一言に尽きる。当然人生は多分まだまだ続くと思うから、何時また想像だにしない苦難が、やって来るとも限らないということは覚悟しているつもりだ。それに今回の病を通して、治す為には自分の努力と同じか、それ以上の『周囲の力』が大切な事も、身に染みて分かった。そして幼い頃に身に付いた「人間としての心の傾斜」を、まず見破らない限り、精神病は治らないとも感じた。
病になれば天を恨む時もあるし、親を憎む時だって、時代を悲観する時だってある筈だ。それでも生きる価値がこの世にあるのか?明確には言い切れないが、私はある、と信じたい。この世は決して楽ではない。良いも悪いもごちゃ混ぜだ。愛想を尽かしたくなる瞬間もしょっちゅうある。でもせっかく生まれて来たのだ。諦めるのは『死んでから』でいい筈だ。それからでも遅くはない。人間の秘めたる可能性は常に『無限』なのだと思うから…。苦難を通してしか人間は変われない。苦難は決して忌み嫌うものではない。しかし最中にある時は本当に苦しい。堪らなく苦しい。そんな時いかに希望を持ち続けられるかが、常に問われているのである。
F君が言っている様な気がする…「人生を簡単に投げ出さないでくれ!諦めないでくれ!貴方の今の暗闇の『一歩先』には、きっと抜けるような青空が広がっているのだから…」と。

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臆病者?

私は考えてみたら『臆病者』だったのかも知れない。ただその自分をつい最近まで認めたくなかった。認める事は論外だったと言ってもいい。強い自分に憧れ続け、プライドの高かった私にとって、『臆病者』などと言う言葉は絶対的な禁句であった。
しかし、生まれ育ちに仕方が無いとはいえ、トラウマを持っていた私に、見せ掛けだけは「強い男」で振舞っていたのは、その反動だったに違いない。細かい出来事を一つ一つ振り返っていくと、「強い男」を無理して振舞ってきた自分ばかりが、思い起こされてならない。
「人前で泣かない」というこだわりは、その中でも特に力を注いだ事であった。発病直前、前述のMちゃん宅に、泣きながら訳の分からない事を怒鳴って押しかけたあの瞬間、「俺は終わった…」と虚脱して、その後は退院するまで佐賀の地元に帰る気はまるで失せていた。それぐらい「泣かない」事は、私の心に病的なまでに私の心に纏わり続けた。本当は今思えば泣きたい時は、沢山あった。でも何故だか分からないが、泣かなかった、いや泣けなかった。
「強い男」になる為に、身体の強さにも異常と思える程執着した。だが限度は知れていると言うのに、退院してからも「強い男」にこだわり続けた。これもトラウマなのかも知れない。要するに「臆病な私」を悟られぬ為の「役に立たない」鎧を纏ってるようなものだった。(続く)

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軽い軽い!

今晩、某局であった『北京パラリンピック総集編』を見た。そこに登場する選手達の障害者になった背景・原因や練習風景を見せてもらった。俺なんか「軽い軽い!」と素直に感服するのと同時に、明日からの生きる力を戴いた。彼らを見下げているつもりは全く無い。何か少しだけ「近いもの」を感じたのも確かだ。ただ、彼らは私のこれまで綴ってきた文章など、吹き飛ばすだけの命がけの、意地と根性を持っている。私は事実精神を病んだ。色々な体験もしはした。でも今となっては身体に不自由な所など殆ど無いし、一言、自分は『甘い!』と痛感した…。
私は同時に自分の可能性について考えさせられた。彼らが悔しくても頑張りたくても出来ない事、それが全てではないが私には出来るのではないかと。結局私は勝手に自分の限界を決めてしまっていたのだ。「ああだったから、こうだったから出来ない…」と。自分に起こった様々な出来事を「言い訳」にしていたような気がする。
劣等感は実は「優越感」の裏返し、とある方の本で読んだ事がある。上ばかり見て「あれが足りない、これも足りない」と不足ばかり思って生きて来たような感じがするが、「既に自分に与えられた恩恵の数々」には殆ど目が行っていなかったような反省を、今している。と、同時に「自分が自分が!」と己の我のみを主張し、他を見る事が出来なかった私が、このドキュメンタリーを見た事を通して、闘病期を抜けつつある事も再認識出来た。彼らに負けないように、必死で何かをやっていかなければいけないような、妙な使命感を持った今晩でした。『当たり前』は『当たり前ではない』と天に感謝です。(続く)

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今、そしてこれからの私

私の人生はまだまだ続いて行く。ここまで振り返って「一生懸命自分なりに生きたな」という思いが沸々と湧いてくる。しかし、何時また想像だにしない苦難がやって来るとも限らない。覚悟はしている。
でも、まずはこの回想録を書けた事を喜ぼうと思う。どこかで何かが少しでも食い違っても、今の私はいない訳だし、その大方を自分が決めたように見えて、実はその殆どが「天のはからい」だった様な気が今はする。
本文中には出て来なかったが、Мチャンという中学からの親友が私にはいる。正月や盆に彼が佐賀に帰って来ると、同じく親友のH君と酒を飲むのだが、このMチャンがとにかく優しい人で、私がどう変わろうと常に同じ態度で接してくれる。F君が他界してのち、Mチャンとよく会うようになり、「本当に優しいってこう言う人の事をいうのか」と思わせる人格の持ち主である。彼が私が病気が重い頃から「思春期の回顧録を書いたら良いよ」と言ってくれていた事を、今ようやく果たせつつある。本当に感謝である。
自分で変えられない事も人生多々ある。何で?って思う事の連続でもある。そんな時大切な事は「現実を肯定しつつ生き抜く事」であるような気がする。私の様に「狂う」体験をしていても、生きてさえいればと思いつつ、頑張ったらここまで治るのである。人生絶望だけはしてはいけない、と思う。(続く)

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リレーのバトンのようなもの

しかし最近になって私はよく言うのだ「リレー競争のバトン渡しみたいなものさ」って。父にも母にも両親がおり、そのまた両親にもそれぞれ両親がいる。それぞれその人達の影響を色濃く受けて育っている。それは無自覚に受けるものであり、『真面目に間違う』のが人間なのだと…。だからこそ「間違いを如何に周囲と本人で正しい方向に正せるか」が、ある意味精神病を超えていく手掛かりなのではないだろうか?と思うのだ。
そしてこの頃から、先程の観点より自分の病気について客観視するようになった、いやなれた。果たしてこれだけの苦痛・苦難は本当に外部の人や物が起こしたものなのか?と。よくよく考えてみると、発病寸前の私の心は、その後に発狂して起こった出来事の全ての『負の要素』をはらんでいた、と今は分かる。要因は自分にあったのである。
ただ、その事をどうしても認めきれなかったのは「自分は精一杯良かれと思ってやってきた。選択肢らしきものも無かった。なのに何故だ!?この苦しみは何だ?そしてこの様は何なんだ!?」という思い一言に尽きる。
でも最近、上にも書いた様に「俺も真面目に間違ったんだな…」という思いが湧くようになり、自分に全ての原因があった事に気付き、誰も憎く無くなってしまったのである!
これは自分にとって『天井がひっくり返った』ような発想の転換であったし、人を恨まなくなる、人や時代のせいにせずに「自分事」と何事も捉えていくと、こうも楽になれるのか!という喜びをもたらしてくれた。ここまで来れば「長い長い闘病生活なんて何のその!」とマジで思う。そしてようやく自分自身を『丸ごと受ける器』が苦労の甲斐あって、出来上がりつつあるのかも知れない。(続く)

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改善の兆し

家の中の生活にも、20代後半頃から大きな変化が見られ始めた。以前は寝ても精神状態が良くなる、といった事が殆ど無かったのだが、睡眠を取ると幾分持ち直せる様になりだしたのである。おかげで薬も減り、自分でも少し良くなりだしたな、と自覚するような些細な出来事が、かなり頻繁に起こる様になっても来だした。
ただ、心の「痛い」部分に触れる出来事が起こると、調子を大きく崩して、母にあてども無い罵声を浴びせる『情けない、幼稚で愚かな』男になってしまうのであった。
しかしそれにしても「母は強し!」とは良く言ったものである。ホントに私なんかより何十倍も強かった。何よりもまず『絶対良くなす!治す!』という信念を、どんなに現状が厳しくても、絶対的に母自身の心に常に抱いてくれていた。それが病苦に喘ぐ私にとって、どれほどの力になったかは、計り知れないものがある。
母は心の何処かに『私たち夫婦が息子を病気にさせた…』と深く後悔と反省の念を抱いていたらしい。私もそう思っていた日々は確かに長くあった。特に父に対してはとても恨んでる面が多々あった。(続く)

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予備校リベンジ!③

センター試験が近づいてくると、模試やら偏差値やら合否判定やらで、校内はがぜん慌ただしくなった。しかし、私はどこか冷めた目でこの状況を見ていた。この時点で、私が何故大学に行こうとしているのかが、自分でも余り良く分からなかった。形ばかりの『大学』に通ったところで、親の金銭的負担が大きくなるだけではないか?それでもモノは試し、センター試験は受けてみる事にした。
11月ごろ手続きを済ませ、翌年の1月某日試験会場のS大学に足を踏み入れた。あちらこちらで進学校の現役生たちのトキの声が聞こえていた。私は初めて用事があって大学という場所に来た。本来ならとても嬉しい筈なのに、頭がハッキリしていなかった為、曖昧な感じがしていた。それでもやはり達成感はあった。
4択方式のテストで、世界史は問題がすらすら解けた。国語も現代文はほぼ解けた。ただし英語はまるきし分からなかった。試験後の自己採点は世界史166点、国語Ⅰ162点、ここまでは良かったのだが…英語が満点の4分の1を下回る42点だった。この後、入校時に書いた大学も含めて、2次試験を数校受けたら、「○○大学経済学部」に何と補欠合格していた!電話で知らせがあり、即決で入学するかしないかを答えなければいけなかったので、証拠は何も無いのだが、とにかく受かった。
予備校に報告に行ったら、担任の先生や数学を教えて下さった先生が「良かったなぁ!」と喜んで、私の名前の上にリボンを付けてくれた。ここで高校に行かず、大検から受かったと宣伝した方が良いのに、と思ったが言わなかった。ハッキリ言ってどうでも良くなっていた。
本当に私が目指していた事、それは多分今でも変わらないが、皆ともう一度一緒になりたい、もう一度一緒に勉強や運動や遊びをしたい!という過去の忘れ物を取って来るという『叶わぬ夢』だった。もし?とか、ああだったら!とかは、考えれば考えるだけ虚しさが深まる事を、私は体験的に知っている。それでも今でも見る夢は、当時のメンツと『N高』を受験している場面ばかりが、出てきてしまうのである。人生は切ない…。(続く)

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予備校リベンジ!②

8月の大検の試験までは何をさておいても、数学に力を注いだ。先生方が皆、何処かの高校の校長経験者で、勉強をしようという意欲に対しては、100%答えてくれた。私の数学を課外で教えて下さった先生も素晴らしい人格者だった。通常の授業が終わってから、問題集を持って何十回もその先生の元に足を運んだ。添削・アドバイス等々色々お世話になり、ついに大検の検定の当日となった。これに受かれば晴れてセンター試験が受けられる、という喜びと「今度の一生は高校は行かれずじまいだったな…」という寂しさが、両方心をよぎった。
試験の結果は10月頃出るのだが、見事『桜咲く』であった。この時より目標は自動的に大学受験へと切り替わった。
通学するのがとても辛い時が多かったが、皆出席はできていた。大検も受かったが、元々高校卒業生向けの授業だから、中学の学力しかない私が付いて行ける科目は限られていた。具体的には世界史と国語であった。この二つはクラスの皆に勝るとも劣らない位の学力があった。ただ、国語の漢文・古文と英語は全然分からなかった。(続く)

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予備校リベンジ!①

この様な中、大検を数学を一科目残して全部取り、退院直後に17歳の時通った「あの」予備校に25~6歳になってもう一度通う事に決めた。今回は『高等部』に通う事になったのだ。しかしこれは大きな博打であった。と言うのも8月の大検で数学が取れなければ、翌年のセンター試験を受ける事さえ出来ないのである。
しかも、前述したように努力の結果、退院当初からしたらそれは相当に前進していたが、それでもまだまだ病状は思わしくなく、対人緊張も強迫観念も多分に残っていた。しかし、ここでも「病なんかに人生左右させんぞ!」と屁のツッパリでエネルギーを何とか出し、とにかく大検に受かる事、そして一日も休まない事を目標に、他の生徒と7、8歳離れた年齢で、病気を隠して入校した。
入った早々、志望校を決めねばならず、そこに居合わせた先生から「○○大経済学部とでも書いておいた方が無難ですよ」と言われ、その通りに紙に書いた。近くの壁に大学の各学部ごとの偏差値なる物を書いた紙が貼ってあったので、私が書いた大学の学部を調べてみると、真ん中より少し上に見つける事が出来た。その紙では他にも、N高やT高に行った友達のその後に進んだ大学の難易度が良く分かり、また色々と複雑な心境になり、やっぱり距離は縮まらないのだなと改めて思い、物凄く寂しい言葉にならない気持ちになってしまった。人生に「ドラえもん」が居てくれたら、どんなに良いだろうとつくづく思った。自分がやろうとしている事の『意味』が全然感じられなかった。(続く)

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パチンコとバイト

困った癖、それはパチンコだ。事の始まりは、家のすぐ近所にあったパチンコ屋に700円持って入って、出て来た時には10000円になっていた事による。それ以来、狂った様にパチンコに行き始め、あれだけ貯まっていた貯金も1年後くらいには底をつき、そのくせまだ対人緊張が強かったから、周囲が怖くて出球を出していても緊張するし、また打ち込んでいても緊張するという、ダメダメ状態を7~8年も続けてしまった。
さらには1年の内、パチンコ屋に行かない日が20日位しかない年もあり、バイトを何の為にやっているのか分からない、愚かな行動を病的に繰り返していた。パチンコは結論から言えば「勝てない」モノである。にも関わらず私がこの時期ここまで熱烈に通ったのは、言い訳っぽいが「独りで家に居るのが堪らない」「パチンコ屋に行けば話はしないが人がいる」という気持ちが強かったのかも知れない。
別にパチンコを美化しているつもりは全く無い。しないならしない方が100倍いい。中毒性も強いし、いい事は殆ど無い。ただ大金を払って、時間潰しが出来た、それだけだ。
パチンコの話は終わりにして、20代を振り返ってみると、郵便局の奇跡的成功から、様々な活動やら大検やらで段々自信を付け初めて、郵便局の時の様に「クローズ」で、バイトに明け暮れた10年間だった。郵便局はもとより、ピザの宅配・運送業・清掃商品の洗濯・サービスエリアのうどん屋・靴の製造工場・日用雑貨の日販店の棚卸・牛乳配達・新聞配達…等などをやった。そんな中でいつも哀しい思いをするのは、バイトを辞める時である。「本当は血圧が高くて辞めるんじゃない!俺、精神病で一杯一杯になってるんだ!」とどれほど言いたかった事か。嘘をつく後ろめたさと、相変わらず精神病に対する偏見に随分悩んだ。しかしこの痛みを伴ってしか今の自分はいないと思う。楽して治る精神病なんて無いと思う。そしてこれらのバイトを続ける原動力となったもの。それは一人間として生まれてきた誇りと意地であった。「まだやれる…まだやれる…」亡霊のようについて回った心の叫びであった。(続く)
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おかしくも多忙な日々

奇跡的に成功した3ヶ月の郵便局のバイトから半年余り後、また機会あって郵便局に勤める事となった。仕事内容は前と同じ内務勤務で、火曜日だけは福岡に通院していたので、それ以外の曜日は日曜を除いて全て出になった。1日8時間のフルタイムで、今思い起こしても「本当に必死だったな…」と感じる位、症状が悪かったにも関わらず、結果的に3年間以上勤め上げた。
この頃の記憶を辿ると、通院はようやく一人で出来るようになっていた。またバイト2年目ぐらいからは、叔父の勧めで、駅からかなり離れた大学病院で「デイケア」という社会復帰能力を高める施設にも、火曜と金曜、診察を博多駅前のクリニックでうけた後、苦手なバスに乗って通っていた。職場の上司には「専門学校に通っている」と一切病気の事は言わなかった。
病気をオープンにするかクローズにするかは、病人個人の自由だが、私の場合はこの後の展開から考えるに、クローズにして良かったと思っている。普通っぽく見せる技能も身に付いたし、甘えが出せない覚悟が出来たように思う。そりゃ散々な目にあったりしょっちゅうしてはいたが、精神的強さを得る事に成功した。
この頃から記憶が結構ハッキリ思い出せるようになったきがする。まだ復調には程遠かったが。
しかし、ある困った癖が付いたのもこの時期だった。仕方が無いとは思うのだが…。(続く)

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大検に挑む

自動車免許取得と同じ17歳の頃から、大学資格検定試験の勉強も始めていた。単位制だったが、高校に1年間ほど行っていると、半分位免除になる仕組みだったので、中卒の私は全単位取らなくてはならなかった。複数年に渡って受験できたが、全11科目もあったので大変だった。
そして大検の試験会場は、私が憧れに憧れていた「N高」だったのである。まさかこういう形でここに来る事になろうとは…と色々考えさせられた。
私が初めて受験した年は、全部の科目を入れても20名足らずの受験者しかいなかった。しかし時代の流れか7年後の最後の受験では、2クラスを使ってやっていた。今では大検から名称も変わったらしく、年1回だったものが、年2回受験出来るようになってるらしい。甘くなったものである。
勉強は今はもう忘れてしまっているが、当時は非常に真面目にやった。心のゆとりの無さが一途さを発揮し、狭量さが集中力に変化した。友達の日本史の教科書を1文字残さずノートに丸写しさえした。こうやって何かに集中している時には、家庭内で暴れる回数も大幅に減った。
でも本当にN高だけには今でも夢でしょっちゅう見るぐらい、物凄く憧れを持ち続けている。それが苦しくて苦しくて、世の無情を何度嘆いたか分からない。後日、友達の家でN高出身生が成人式に晴れ着を着て、私の知っている人ばかりで写ってる写真を見せてもらった。気がまた狂うかと思った。(続く)

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KM君小話

KM君とはその教習所の時に出会った。警察官の息子で、中型二輪と普通免許を同時に取ろうとしていた。感じの良い好青年だったので、勇気を持って声をかけてみたら、結構親しい感じになった。
私はそんな機会に恵まれた事が、発病後ほとんど無かったので舞い上がってしまい、彼にジュースをおごったり、彼をボーリングに誘ったりして、心を尽くしたつもりでいた。彼を自分の友達に出来ると信じての行為だった。今思えば私は極端に世間を知らなさ過ぎたし、当時は目の前しか見えない狭量な人間だった。しかしその時はそんな自分には全く気付いていなかったから、彼との付き合いに度が過ぎるほど気を配り、またサービスした。
どんな雰囲気で彼と話していたのか、病気のせいもあり今でははっきりとは思い出せないが、ある時偶然彼が女の子と一緒に話しているのを目撃した。その瞬間一気に彼が雲の上の人になってしまっていた。私には到底及びもつかない世界に彼がいた…。この様なカルチャーショックはこの後何度となく重ねていく事になるのだが、今考えてみると彼が普通で私がおかしかったのだ。でもこの事件は、私にとっては大変大きなものであり、病気の陰が厚く出た一幕だった。(続く)

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バイトの収入で自信を付けた!

この3ヶ月間のバイトの成功は、私にとって大変大きな自信になった。まず自力で30万円近くのお金を稼ぎ、「お金って結構簡単に貰えるんだ…」と思った事。これは20代を通して病気を隠して働き続ける原動力となった。この他にも、頭は相変わらずボーっとして大変な状況だったにも関わらず、3ヶ月間働けた「病気でも隠して働ける!」という未来が少しだけ見えてきた感じもした。
もっとも、一番の原動力は(友達、そして自分に)負けたくないという思いだったのだが。そして主治医が「君は時々とんでもない事をしでかすからなぁ!」と10年後位に振り返る程、危なっかしい3ヶ月間だった様でもある。
そしてその冬、貯めたお金を使って、これまた何で思いついたのか良く分からないのだが、普通自動車免許を取りに教習所に通う事にした。教習所で口が裂けても「精神薬飲んでます」等とは言われない。しかし相変わらず副作用は強烈で、教習車の後部座席で爆睡したり、教習所内の『交通安全地蔵』に、寝ぼけてぶつけそうになったりと最悪だったが、学科は一発で通った。実技も病気故の「変な誠実さ」が検査官に変にうけて、5回目に無事通った。本試験は簡単なものだったので、私は運転免許を取得する事に成功した。(続く)

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初めての本格的『ばいと』

19歳になった頃、病状はまだ相当悪かったが、従兄弟が郵便局でアルバイトをしていると聞き、これまたどういういきさつだか覚えてないが、猪突猛進・無我夢中で郵便局に飛び込んだ。そしたらたまたま空きがあるとの事で、「明日から来てくれ」と言ってもらい、興奮気味に家に飛んで帰ったのは覚えている。
まだ色々な症状が残っており、親も「無理じゃないか?」と言っていたが、そんな事を聞く当時の私では無かった。友達に勝ちたくて勝ちたくて、しょうがなかった。どいつもこいつも、テレビにに出ている芸能人も、年の近い連中は皆私の「ライバル」だった。そいつらに勝ちたいけど、勝てない…その葛藤こそが20代の私の原動力であった。
そんな私だったが、このバイトに関して、薬の副作用については悩まざるおえなかった。主治医が見つけ出してくれた薬が、服用するととにかく眠いのだ。この時、朝・昼・夕それぞれ4錠ずつ程飲んでいたから、昼間の眠気はただ事ではなかった。ブラックコーヒーを2リットル飲んでみても、眠いしだるいし手足はガクガク震えるしで、大変極まりなかったのだが、3ヶ月という期限がついていた事と、この頃の郵便局には私のような「挙動不審者」を受け入れてくれる、優しさとゆとりがあった。G先輩という優しい人にも随分助けて頂いて、3ヶ月間の郵便内務非常勤を無事、勤め上げる事が出来た。(続く)

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F君が残していった物③

当時の私には唯一の友達だった彼…しかし無情にも別れの時が来る。彼は下宿のある宮崎から、バイクで帰省していた。私は彼と電話で11月の終わり頃、お互い興味のあった軍事関係の用品を扱っている、福岡のある店に行く約束を交わしていた。実を言うとこの事が当時の私には、大変重荷になっていた。佐賀の街にも出れないでいる私が、福岡にそれも天神に行くなんて!?と凹んでしまっていた。しかし12月の27日が近づくにつれ、大分その気になってきていた。
12月の25日、言わば彼との最後の会話になってしまった電話では「明日かえるから!」と言っていた。ちょうど弟がラグビーの全国大会にレギュラーで出場していた為、26日から家族は新幹線で大阪の伯母の家に泊めてもらう手筈となっており、私が27日にF君と福岡にどうしても行くと言うもんで、危惧しながらも私一人が家に残る事になっていた。
26日が来た。もうそろそろ彼が着くのでは?と彼の実家に私は電話した。妹さんが出られて「兄はまだ帰ってません…」と少し気にかかる声色だったが、私は別に気にしてなかった。しばらくして、両親が「大阪に一緒に行くよ!」と半ば強制的に私を連れて行こうとした。「帰ってくる日が変わったのかな?」と思い、連絡が取れない以上、私は親に従って大阪に急遽行く事になった。
実はこの時、彼は既にこの世の人では無かった…親には彼の叔母さんに当たる人から連絡はあっていたのだ。しかしこの時の私に、この事実を伝えあぐねて隠したまま私を大阪に連れて行く他無かったのだと思う。
大阪に着きはしたが、何か一家して落ち着かなかった。私も何か胸騒ぎがしていたが、死んでるとは流石に思わなかった。伯母の家に着いても精神的に悪く、早々に布団を敷いてもらってウンウンうなって寝込んでいた。すると…強迫観念はいつもの事だったが、それとはかなり違う感じの『呼びかけ』っぽいものが心に伝わってきた。
今でもしっかり覚えているのだが『○○、いしゃになれ、○○、いしゃになれ…』と繰り返し呼びかけてくるのだ。『いしゃ』が医者という意味なのか、癒者という意味なのか未だに良く分からないのだが、間違いなくこの世で最後の彼のいたわりの『言霊』だったのだと思っている。
佐賀に帰って真相を両親から聞く事になるのだが、彼と27日に行こうとしていた店は、何の因果か私の今の職場の『目の前』にあるのであった。(続く)

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F君の残していった物②

彼が宮崎の大学を受験した冬、まだ外に出るには厳しい精神状態だったが、2人で私の家の近くにある由緒ある神社に願掛けに行った。彼が引いたおみくじが中々良い内容だったので、私が彼を肩車して御神木に結びつけた。そして彼は志望大学に見事に合格した。
彼の実家は兼業農家で、彼は長男だった。親父さんの手伝いをする為に、トラクターの免許を取ったりする親孝行な青年だった。元々小学生の頃から機械いじりが大好きで、高校も結果的には進学校に行ったが、高専にも受かっていた。そして大学は工学部。大学卒業後は設計技師でもある親父さんの後を継ぐつもりで、帰佐する事がほぼ決まっていた。心から郷土を愛する熱血漢だった。
『ぬるい』ギャグが大嫌いで、そういう芸人をめたくそに言ったかと思うと、『ホラー映画』が大の苦手で絶対に見なかった。
彼が大学1年生の時は、ほとんど毎日彼の下宿に電話した。電話代が物凄く上がったが、私の孤独な状況を見て、両親は黙認してくれた。
初めは私の生活が生活だから、彼を笑わせる「ネタ本」を自分でこしらえ、「今日はこれを話そう」と話題を無理して作っていたが、だんだんそんな必要も無くなった。彼は病気になる前の私に対する接し方と何ら変わる事なく、当時の私と付き合ってくれた。本当に情に厚い男だった。(続く)

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