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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

F君の残していった物①

その後も、家の中での家族とだけしか会わない生活が、長く続いた。父の仕事に関係のある電気部品会社の、簡単な内職をしたり、高校生になった弟とパソコンで、ゲーム対戦をしたりしていたが、気持ちは揺れに揺れていた。焦り・怒り・緊張・虚無感等が入り乱れて、頭の中を駆け巡っていた。また、この時期小遣いと内職の駄賃で、ほとんど外に出ないから、貯金通帳にお金が段々貯まっていった。今では考えられない事である。
この様にこの頃まだ症状が重く、友達に会える状態では無かったのだが、以前書いた「F君」とは交流があった。彼は思い返せば、実直で素直、男気があり、それでいて読書家で頭が良く…しかし私が彼に一番見ていた憧れは「自分らしく、自己主張」出来る事であった。前にも触れたが、家族・親戚以外で、何人の人にしか打ち明けていなかった「私の病気」の事を、思い切って彼に打ち明けてみた。今の様に冷静ではなかったから、上手く話せたかどうかも分からない。それでも一通り聞き終えた後、彼が「お前、ハードやったんやな…」とポツリと言ってくれた。自分の意見などまるで言わず、自分の理解し得る範囲の最高の言葉だったんだと思う。しかもその後も病気の私ではなく、『人格の私』と付き合ってくれた彼だった。
彼と宮崎駿監督の「紅の豚」を見に行った。彼は既に原付きの免許を持っていたが、私は持って無かった。彼は私に合わせて自転車で映画館に行ってくれた。映画はともかく、今分かるのだが、原付きに乗りなれると、中々チャリには乗れないものである。それを無理してこいだもんで、次の日℡したら「久々チャリこいで足の痛かー!」と言っていた。とにかく優しい性格の男だった。(続く)

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恩のある人々

でも、このD医師との出会いも、この分野に精通していた『叔父』無くしては有り得なかった。なにせD先生は、私と初めてであった時、今の私とほとんど同じ位の若さだったのである。その主治医を猛烈に推挙してくれたのも、他ならぬ叔父であった。
叔父は私が赤ちゃんの頃から可愛がってくれ、私の良い所も悪い所もすごく良く理解してくれている人で、色々な意味に於いて『恩人』である。私の精神状態が悪かった5~6年くらい前まで、どんなに忙しくても電話に出てくれて、悩みを親身になって聞いてくれた。回数にして何千回か分からない位、それも訳の分からない事ばかり言う私の話を、しっかり受け止めてアドバイスを与え続けてくれた。その人のもとで働けている今の自分は、とっても幸せだとつくづく思う。ちなみにいかにも寛容な、叔父らしいエピソードとして…私と叔父が半年間ほど一緒に暮らしたアパートは、私の発症時に大破した事は以前述べたが、何とその部屋にその後7ヶ月程の間、住み続けたのである!こんな事、私には到底出来ない。
そして、両親の私の病気に対する「心と身体の介護」もパーフェクトに近かったような気がする。母は『絶対に良くなるから!後少しだから!』と、当時の私が盲信でないかと疑うくらい、これも何千回も言い続けてくれてくれた。私がどんなに高価な物や、大切な物を壊そうと、牛乳をコップ1杯ぐっと飲んで気合いを入れ、私をなだめてから後片付けをしてくれるのであった。他にも私が暴れだすと、まず決まって1番奥の部屋に連れて行った。今思えば私の「罵声」が、ご近所に少しでも聞こえぬ様にとの配慮であったことが、良く分かる。
両親・兄弟・叔父…私にとって最高に幸せなのは、この中の誰もが今現在元気にしてくれている事である。恩返しが出来るとは到底思えないが、出来る範囲で精一杯喜ばせてあげたいと、つくづく思うのである。苦しかった時の恩は、心の髄に残るものなのである。(続く)

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名医D先生

17~18歳の頃だったか、主治医が私に「合った」薬を見つけてくれた。とても強い薬だったが、緊張状態の緩和に威力を発揮した。今あの薬を1錠飲めば1日寝たきりになる位の薬を、16~20錠余りも1日に服用していた。それでもかなり楽になった。この薬にはバイトをしていた20代中頃までお世話になった。このくすりの外にも6、7種類の薬を当時は服用していたので、副作用で眠気・手の震え・口の渇き・便秘等が起こったが、D先生はこの時点で私の病気をかなり掴んでくれていたので、無駄な薬を処方する事はほとんど無かったように思う。そして何より、薬も使うが中心はカウンセリングだったので、それも安心した。
この頃は「とにかく自信を付けなさい。家にしかいられない時は、風呂掃除・親の布団敷き等をしなさい。」といった行動の具体例を示してくれたので、私の性格にピタッときた。
しかし、今先生と話すと「いやぁ、あなたは重症だったからなぁ!ここまで来れたのは奇跡に近いよ。」とおっしゃるところを見ると、先生も賭けの気持ちもあったんだな、と思ったりもするが、当時から一貫して『絶対良くなる!』と言い続けてくれた事に関しては、私にとってはこれ以上に無い、有難い事だった。大変良い医師に巡り会えた事は、正に「地獄に仏」であり、今でもとても感謝している。(続く)

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まだまだ出口は見えない…

犬の話をしだしたら止まらなくなるので、この辺で一旦終了。で、分かられたと思うが私のHネームは彼の名前からきている。
私は予備校の挫折の後、しばらく家庭内での生活を余儀なくされた。そして週に1回の福岡への通院はまだ一人では無理で、父は仕事があったので、母に付いて来てもらっていた。
頭は正常には程遠く、お先真っ暗だった。単調な日々が続いていたが、家の中では頻繁に騒動を起こしていたようだ。ハッキリとは覚えていないが。
私はどうやら「自己表現能力」が欠けていたらしい。幼い頃から自分の言いたい事を相手に伝える事が、ある分野に限ってだが非常に苦手だった。「ある分野」とは、強い調子で言ってくる人に対してである。恫喝されそうになったり、実際恫喝されたりすると、トラウマから平常心を失ってしまうのだ。そしてこれも不思議な事なのだが、暴れはするが実際に人を殴ったり、蹴ったりした事は特例を除いて1度も無いのである。そういう心が少しでも脳裏をよぎると、強力なブレーキが全身にかかって、身動きが取れなくなってしまうのであった。これ自体が私の思春期の最大の「懸案」であったのだが、私にもしこのブレーキが無かったら、多分妄想は内向きに切れ込まず、外に飛び出して最悪の事態を招いていた可能性が高かったのではないだろうか?感謝すべきかどうかは意見の分かれる所であるが、外に出ていたら、とりあえず今の私はいないだろう。(続く)

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重千代君我が家へ

にっちもさっちもいかない闘病生活の中、退院して二年目位だったか、我が家に子犬が貰われて来た。ほぼ真っ白の毛並みの柴犬だった。こういう病には良い、ということで叔父が助言をくれ、父が会社の従業員さんに頼んで、家に来た犬だった。
しかし、家に帰った私はこの子の鳴き声が、保護室で聞いた叫び声とだぶってしまい、恐慌を起こしてしまった。その為彼は来た早々、ペット病院のホテルに『軟禁』されてしまった。人間って理性を無くすと獣のような声になると言う事なのか?とこの事を通して感じた。
彼は3日後ぐらいに『開放』され我が家に戻って来た。最初はきつかったが、だんだん慣れてくると彼が可愛くて可愛くて仕方がなくなった。無邪気に、しかも自然に振舞う彼を見ていると、心が癒された。外に出たくなくても、彼可愛さに無理矢理散歩に出かけた。
彼がやんちゃな性格で、運動能力も高かったことから、散歩は晩年の1年間位を除けば、4キロのコースをほとんど全力疾走で走りぬいた。退院後、締りの無い体型になっていた私が、「筋骨質」に2年程でなってしまった。すごい効果である。
ところで、この全力疾走には訳があった…。私と彼の間のひもの長さは70センチほど。私はこの時まだ、自分が抑圧されて育ったから病気になったと思ってたから、せめて彼にはそんな思いはさせたくないと、「子育て」するような心があった。だから70センチの紐であろうと、それを感じさせない散歩にしようと、紐がつっぱる事の無いように、彼の動きを注視しながら全速力で走り続ける「開放された散歩」に徹したかったのだ。(続く)

PS:彼があの世に旅立ってから,相変わらず犬モノには大変弱く、すぐ涙が出てしまいます。彼は私がどん底の時に現れて、私がほぼ治ったのを見届けて、帰って行きました。まるで救世主のような犬でした。彼は肉体的にも大変強く、1度も病院に行った事がありませんでした。雷を怖がる犬って結構いるみたいなんですが、彼は騒ぐ事も無く、雷が落ちる度にその方向を振り向く、そんな犬でした。私は知り合いもおらず、夏の花火大会に彼と行ったのですが、花火が乱れ打たれる中、彼はマーキングに必死で、「お前、少しは花火見ろよ」とぼやいた事がつい昨日の事のように思い出されます。彼はえさにおいても、自分が気にくわないえさだと、皿ごとひっくり返したりしてたのですが、家の中からその後の様子を見ていると、落としたえさを丁寧に拾って食べていたりする、そんなお茶目な犬でした。

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病状は回復してくれない…

自分の怒鳴り声で、夜中しょっちゅう目が覚めた。家庭内の物を沢山壊した。外に出ると普通ぽく振舞うのだが、『今、ここにいる』という実感が全然湧いてこなくて、自分の周りに幾重にも膜がかかってるような感じが、発狂以来ずーっと続いていた。季節感も無く、灰色の世界の中に住んでいた。自分はここまで苦労しているんだから、将来は絶対にすごい人物になる!と漠然と思ってはいたが、何か机上の空論ではないか?とも感じていた。だって自分は変なんだって、どこかで分かっていたから。
とにかく16歳の退院から一生懸命生きてはきた。悔いは無かったと断言出来る位、頑張った感じがしていた。ただ、こんなにも生きるという事は辛いものなのか、苦しいものなのかと神様に本気で聞いてみたかった。
また、治るという事がどういうことなのか、この頃は全然分かっていなかった。想像がつかない領域だった。何を目指して進めばいいのか、全く分からず、再入院の恐怖に怯えながら、毎日を生きた。(続く)

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暴れまくり、怖がりまくり!

予備校は辞めた。そして薬を服用する事を再開した。最初は中々合った薬が見つからず、D先生も苦労していたようだった。私の自宅は佐賀市にあって、D先生のおられる病院は福岡市にあった。最初のうちは17歳のいい年した青年が、両親のどちらかに付き添ってもらわないと、病院に行けなかった。精神状態が大変悪く、対人恐怖もバリバリ残っていた為、電車にも一人で乗れなかったのだ。母と2人での行き帰りの道中も、いつ爆発するか分からない私を、母は気丈にたしなめながら守ってくれていたと、今ようやく深い感謝の念が湧いて来る。と同時に、今現在、両親が元気にしてくれている事が、これから恩返しして行ける!と幸せでたまらない。
当時に戻る…家ではちょっとしたきっかけで、興奮状態にしょっちゅうなっており、母が寝る暇も無いほど、懸命に対処してくれていた。母は常に「絶対良くなるから!もうちょっとだから!」と言ってくれていたが、私には到底そうは思えず、深いニヒリズムに落ち込んでしまっていた。
私は本当は、母に罵声を浴びせたいのでは全く無かった。むしろ周囲の不良、そして世間に鉄槌を振り下ろしたかったのだ。でも自らのトラウマにより、それは封じられていた。私の思春期のエネルギーを母はもろに喰らってしまっていた。
そして巷に帰って来た事により、同級生の動向が耳に入る機会が多くなり、「何であいつ等だけ楽しく楽して過ごしてるんだ-!」としょっちゅう憤っては、何の罪も無い母に罵声を浴びせていた。とにかく最低最悪な日々が続いた。(続く)

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背中合わせ

薬を止めたことは、今考えれば決して良い判断とは言えなかったが、その結果が今現在かかっている主治医に医師を戻す事につながった事は、大変にラッキーだった。このD先生は、私が発狂する前の状態をご存知の貴重な方だったので、病状を見極める上において、この後その事が大変大きく役に立つ事になった。
予備校に精神的にも肉体的にも限界を超えて行けなくなり、昼間っから布団に入ってウンウンうなって過ごすような日々が続き、頭の中は強迫観念等によって『大運動会』さながらの妄想・怒り・恨み・後悔等が、考えたくないのに飛び出してきて、毎日「水中に頭を押し付けられている」様だった。思考がコントロール出来ないのである。しかも自分の頭が勝手にやっちゃうのだから、防ぎようが無い。
またこの頃は、思考より感情が先にたっていたせいか、出来事というよりは『模様』のような言葉を超えた激情があふれ出て来ていた。
そしてとうとう苦しみに耐えかねて、両親と共にD医院に転がり込んだ。D先生が「入院させますか?」とおっしゃる位悪い状態だったらしく、自分でも半ば「また入院するのか…」と諦めかけていたら、一緒に来ていた両親がきっぱりと「家でみます」と断言してくれた。
実は両親は私が入院している最中にも、この医師と数回会ってくれており、「状況は厳しいですよ、一波乱、二波乱は覚悟しておいてください」と言われているにも関わらず、である。実際は百波乱以上苦難は起こることになってしまうのだが…。(続く)

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変な中学浪人生

この後、この年の夏ぐらいであったろうか?私は「予備校に行こう!」と考えた。当時の周囲も今の私も「絶対無理」と分かる状態だった。これもどうやって調べたか、工場の事務所のような所にも何回か入ったようであったが、尋ね尋ねた挙句私は目的の予備校にたどり着いた。
中学生の予備校は、県下にここしかないらしく、その時の私の心は「皆に追いつきたい」の一心だったのだと思うが、やはりこれがまずかった。
薬も服用していない上に、皆より既に1歳年上だった為、存在の奇抜さは病状も合わさって、群を大きく抜いていた。そんな中、ひたすら生き別れになった友達と、もう一度一緒に学校生活を送りたい、と思って無茶苦茶無理を重ねた。挙動不審にしょっちゅうなり、所々記憶がとんだりしても、もう前進あるのみ!という情熱は、思いの強さ故に一切揺るがなかった。とにかく狂ってながらも精神力で、常識では考えられない『爆発馬力』を出してむやみに突進し続けた。
後先考えられる状態では無かったのであるが、この無理の代償で精神状態はすごく悪化し、とうとう布団から起き上がれない程になってしまった。
しかし、後述するがこの予備校の高等科に、私は10年後位にもう一度通う事となり、「大検合格者の久留米大合格」という、自分なりの『快挙』を成し遂げる事になるのである。世の中、一寸先は分からないものである。

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色々な習慣等

ところで私は入院中から、金銭出納帳を付けていた。母はこの帳面の文字を見て、余りの力無さに涙が出た、とか言っていたが、とにかく1円も漏らさず付けていた。外に出る事も無く、お金も殆ど使わないので、出納帳の金額は徐々に増えていった。
この他『一日の行動計画表』も毎日作った。30分単位位で一日の行動予定を付けていた。
後、歯磨きも入院中に一日3回やってた習慣そのままに、退院後も続けた。
入院中、とても汚いスリッパをずっと履いていて、多発性いぼが出来たり、親指の爪が両方ともひょうそうになったりもしていた。
卓球が入院してる時に、看護師さん相手に結構やってたので、何とかラリーが続けられるぐらいにはなっていた。
それと、中学校の時に坊主頭だったのが、髪が生えた為に整髪料にも関心を持ち出したのもこの頃だった。(続く)

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焼肉

まず第一歩として、自転車を近くの自転車屋に買いに行く事にした。当時はこれが『冒険』に感じられるほど、とことん具合が悪かった。次に中学生の頃やっていた新聞配達をやってみようと思い立ち、団地内の新聞屋に半ば殴りこみのように入って行って、どういう経緯で認めてもらえたのか殆ど覚えていないが、退院7日目位には私は新聞配達人になっていた。
しかし前述の様に精神状態がとんでもなかったので、1週間で継続不能に陥り辞めた。とても優しい新聞屋さんで、私が辞めた後自宅に「頑張ってくれたから…」と焼肉用の牛肉を持ってきて下さった。
この様に外に溢れ出さんばかりのやる気には満ちていたのだが、やる気の出口が無い、もしくは極端に小さいという状況は、病気が病気、病状が病状なだけに、歯軋りしながら耐えて行くほか無かったかに見えた。
それでも思春期と言うのは恐ろしい。核爆弾みたいなものだ。滅茶苦茶だったし、傷だらけだったが、それを上回る『何に対しても絶対負けてたまるか!』という極度の負けず嫌いから湧き出でた執念には物凄いものがあった。これが原動力となり、以後30歳位になる15年間程の間、猪突猛進していく事になる。この悔しさを、そして無念さを晴らせるものならば、死んでもいいと心底思い込んでいた。(続く)

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新しい環境で

それと私の入院中に家が引っ越していて、暗い思い出ばかりのあの借家ともおさらばできた。ただ、私の状態はと言えば、最悪最低だった。
床に何度這いつくばったか分からない程苦しかったし、ちょっと友達の事を考えると、興奮・混乱で頭が沸騰してしまう…。対人恐怖でほとんど家から出られない。強迫観念が凄まじくひどく、頭の中は毎日『博多山笠』が賑やかに(やりたくも無いのに)行われてる感じという有り様だった。
明らかに他の16歳とは違う、と自分でも何となく思っていた。苦労した人は『偉人』になる、と誰かが励ましてくれた時、頭をよぎったのは「偉い人は暗殺される」という感じだったりマジでして、暗殺の恐怖におののくなどと言う、吉本劇場よりもハイレベルな、今思えば良く生きてたな、と思うほどの壮絶さだった。
入院していた病院には、ある人の助言で2回位しか薬を貰いに行かず、その後薬を完全に止めてしまった。こうして何の希望も見えぬまま、家庭での闘病生活が始まった。(続く)

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本編に戻ります

パトカーに先導されての強制入院から約1年と3ヶ月余り、私はついに退院して家に戻る事になった。しかし治って退院するのではまるで無かったし、これから先のことを考えると、言いようの無いような、得体の知れない不安と恐れが、大きく口を開けているかの様だった。
この時点で私が抱えていた症状は多岐に及んでおり、対人恐怖に始まり、妄想・興奮・混乱・パニック障害・強迫観念・緊張症・抑うつ症状等で、どれを取っても改善するのにただならぬひたむきで地味な努力を必要とするものばかりであった。しかもこれからは、家庭で家族と一緒に生活しながらの治療となっていくので、大変な覚悟を私と家族はしなければならなかった。
将来なんて見えよう筈も無い…でも私は人間として最低の義務だけは果たしたかった。「生まれたからには死ぬまで生き抜く」ということを。これは入院中も一貫して貫いてきた『決意』であった。意地が見せたかったのだ。闇から闇へ葬られたくなかったのだ。もっと言えば人間の本当の可能性を信じたかったのかも知れない。何にせよ、この思いは今でも変わる事無く続いている。(続く)

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本編ではありませんが…

私が発病した頃(平成元年)には、周りで起こってる事件も今のように陰惨ではありませんでした。確か少年犯罪の中で一番騒がれていたのは、「祖母を金属バットで殴り殺した」という事件とかで、神戸の話も、その他最近の様に毎日のように、少年が引き起こす凄惨な事件が報道されるなんて事は『アメリカではあっても』という位、縁遠いものでした。
しかし、今ではその様なニュースが流れても「またか…」程にしか感じられないのが、大方の現状です。私は発症した時、本当に運良く『事件』にはなりませんでした。でも後半歩という所まではいった人間です。今こうしてブログを打たせて頂いているのも、加害者・被害者のどちらも他人とは思えないからだと思います。
そして私が事件を起こさなかったのは、なにも私が何か良い行いをしたからとかでは、決してないのです。何か見えない力に守られたのです。ならば、せめて一石を投じたい、生かされた感謝をもといにして、この状況からどちらの側の人にも幸せになって戴きたい。好きで間違う人はいない、当然好きで傷つけられたりする人がいる訳が無い!
私のブログはそういったニュアンスで書いてるつもりです。入院編は終わりになり、拙い文章ですが、この先は少し退院後から現在にかけての、治っていく様を綴りたいと思っています。
それと、私のブログは実際の体験の量からすると、ほんの少しの部分を書いたに過ぎません。この時期のここの心境を知りたい、等のご要望は喜んでお受けします。20年間、無駄にはしたくないので。

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入院編は終わりです

私は過去を明かす事によって、それらの出来事に怒り・不足等を書こうとしてる訳では決して無い。私のような者が書く文章が、社会に役立つかどうかはどうかは疑問であるが、一言で言えば「病気になってしまったって頑張れば道は開ける」と言う事を言いたいのである。
病気が避けられるものとは思えない。ほぼ同じ環境に生まれた兄弟が病気になっていない事を考えても、私に問題があったのは確かである。親のせいでも当然無いし、これが私の通る道なのだと思う。人のせいにしている間は、道は一向に開かない。自らにこそ原因があるという事をしっかり思えたからこそ、そう思えて病気も治癒しているのだと、思える。
正しく生きたつもりでも、間違ってしまうのが哀しいかな人生である。私も「何で正しく生きてきたのに?」と思っていたが、そこにこだわっていたら何時までも苦しむばかりである。
原因を自分に見、もつれた糸が徐々にほどけて行くように、病と根気強く向き合っていくしか無い、今はそう断言できる。当事者もきついが、家族はある意味もっときつい。ひたすらに未来を信じて頑張って行くしか無いのであると思う。
この病は『治る!』と言い切れる今が感謝でならない。みんな有難う!

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彼女の本音

ここの保護室は、前の病院のそれに比べれば大分居心地が良かった。ナースを呼ぶブザーも付いていた。しかしお隣りにまたしても恵まれなかった。
Tさんという女性が入れられていたのだが、完全に『イッた』人だったので、大変苦労した。「こんにちは、お名前何て言うんですか?」と入れられて早々聞いてきたので「○○と言います」と答えたのだが、これがいけなかった。夜中じゅう眠らずに自分の作った話やら、作詞作曲の歌を大声でわめき散らすのだから堪らない!挙句の果てには、「淀の君のおわす所の仇、○○の首をとれー!」と私が物語りに登場してしまい、余りの異常さに頭が狂いそう(もう既に狂っていたが…)になった。昼間はいびきをかいて寝ているし、用を足す音は壁越しにハッキリ聞こえるしで、16歳の私にはその人間の性丸出しの状況は、ちょっと刺激が強すぎた。
しかし、そんなTさんがまともになる時が、ごく稀にあった。軽い気持ちで「Tさん、良かったですね、気分いいでしょ?」と壁越しに聞いてみると「まともになると自殺したくなります…」という意外な返事が返って来た。何だかこの病の残酷さ・むごさを痛切に感じた瞬間だった。
私は退院ぎりぎりまでこの保護室で過ごした。ここでは時々看護師が部屋の中に入って来てくれて、話し相手になってくれたりと、前の病院よりは不安も少なく過ごせた。ただ、効能不明の点滴を一日二回、三ヶ月も続けられた事には、今更ながら不足に感じている。(続く)

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また…腐れ縁

目処が立たない事に担当医も焦ったのか「森田療法をしてみましょう」と突然に言われた。当時の私の病状が大体分かっている、現在の主治医に言わせると『とんでもない』事なのだそうだが、禅宗の思想を取り入れたというその療法は、効果・期間などがほとんど私に知らされないまま、訳も分からず始まってしまった。
最初の一週間はずっとベットに入っていなくてはならず、その後掃除などの作業を毎日決められた時間するといった内容だった。
でも私には今思えば、合ってなかった療法であったし、苛々は募るばかりだった。おまけに将来が全くと言って良いほど見えてこない…。ここは開放病棟だ、F君の家に逃げてみようかな、とどこまで真剣なのか分からなかったが、脱走を試みた。
しかしご推察の通り、まるでブラックユーモアの効いたマンガのように、医者と看護師の大群が出動して、あっという間に『御用』となった。数人から羽交い絞めにされて、注射…そこまでは良かったのだが、翌日目覚めたら、『保護室』に運びこまれていた。(続く)

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病識は無かった

ここで半年ほど、どうやこうやして過ごした。しかし退院の目処は知らされず、「俺は一生組には絶対なりたくない!」というかすかな希望を支えに毎日を生きた。でも担当医が私の病気を掴めて無い以上、治りようがないと思ったりもした。もちろん自分も自分の病気が分からない、と言うよりハッキリいって自分自身に、『病識』がほとんど備わっていなかった。これはこの病気特有の状態で、それに加えて脳のダメージがまだかなりひどかったということも、一枚かんでいたと思われる。(続く)

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外の世界へ(仮)

この病院は病棟が10以上あって、それぞれの病棟にはある程度だが、患者の症状の区分があった。私はその中で最も開放的であろうと思われる病棟に、移る事になった。
今回の一連の入院後、初めての『開放病棟』に、特に期待があった訳では無かったが、外に自由にようやく出れるようになった。首も治ってきていたし、前の病院とは看護師さん達の雰囲気が全然違っていた。嬉しい、とまでは思えなかったが、ひとときの安息をつけた事は確かだった。
そんな風なので、その病棟の患者は、比較的「会話の成立する」人が多かった。それでも9割以上の人たちが、退院の目処すら立っていない有り様だった。
この病院での私の担当医は、今思えば若く賢いが、どこか頼りない人だった。結果的にこの医師は、退院まで私の病気を掴みとる事が出来なかった。
だからって悪い人だった訳ではなかったのだが…。今思えば経験が足りなかっただけだろう。それも仕方の無い事だ、だって病気した事が無いんだから。(続く) 

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ナイトメア

夢幻の世界に引きずり込まれたような、無力さと虚無感が自分を覆い尽くしていた。「これまでの人生、間違って生きたつもりは毛頭無いのに、何故自分だけこんな目に遭わなければいけないんだ!」とか「自分の人生に選択肢らしきものは見当たらなかったのに、どうして?」とかばかり考えていた。世の中の理不尽さを嘆き、人生の無情さを嘆いた。
部屋も自分で『開けられる』部屋となり、病棟の外にも看護師の付き添いがあれば出れるようになったが、しかし肝心の精神は砕けたままだった。季節感はまるで無く、虚ろなとても16歳の青年の目とは思えない目をして、根無し草のように漂流し続ける毎日を送っていた。将来の事等到底考えられる状態では無かったし、今おかれている現状自体、到底理解できる頭の状態では無かった。ただ、確実に年月だけは過ぎていった。それだけ同級生達との精神的・肉体的な乖離も酷くなって行った。(続く)

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何やってんだろう?

また、食事も今までと違って皆で食堂で食べた。その食堂にはテレビがあった。平成元年の三月のある日、患者の一人がテレビをつけたら「今日、県下一斉に高校入試が行われました。受験生たちも…」という大変ショッキングなニュ-スが流れていた。皆と本当に離れ離れになったんだな、と何となくだが感じた。しかし、何か後までずーっと尾を引く表現しようの無い『哀しさ』だった。
高校にも行けず、俺はどうなってしまったんだろう?一体なんでこんな所に居るんだろう?何が何でどこがどうなってしまったの?等と考えてみたところで、この余りに重い現実を受け止める事が出来る力は、当時の私には到底足りなかった。(続く)

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ただの丸

佐賀県にあるZ病院が次の入院先だった。敷地がすごく広く、平屋建ての病棟が中央廊下の両脇に、枝のように連なっていた。今回こそ「外に自由に出れるのか?」と期待を寄せたが、入れられた病棟はまたしても閉鎖病棟だった。居合わせた男性の看護師に「外に出れますか?」と聞いたら、「中庭だったら出れるよ」と言われた。この病棟は、棟内は自由に移動できたし、許可が出れば病棟の外へも出れた。しかし外に出て太陽を久しぶりに見上げた時、ただの「丸」にしか見えなかったことが、感受性の喪失を表していた。虚ろな感覚だった。(続く)

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