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鉄格子の中から

中学3年の時、私自身が精神病を発症し、35歳になる現在に至るまでの色々な闘病体験などを、拙い文章ですが綴らせて戴きます、どうぞ宜しく。

帰宅したいが…

結局この病院では解放病棟に出る事も果たせず、転院の運びとなった。転院先の病院の事を何ら聞かされる事も無いまま、両親の乗る車に乗った。その時初めてこの病院の外観を見た。思ったより普通ぽかった。
車中での記憶も曖昧で、両親に「家に寄りたい」と言った事は覚えているが、自分が思っているのの何倍も『危険状態』であったであろうその時の私の願いはにべも無く却下され、通りがかりの回転寿司屋に寄っただけで、次の病院へと向かった。(続く)

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母との再会

とりあえず、二ヶ月余りのこの『収容病院』での生活は次の病院へ転院する、という形で終わりを遂げた。何一つ解決はしてなく、自分が今何をやっているのかさえほとんど理解出来なかった二ヶ月間だった。
転院に先立って、家族との面接が行われた。この時母と半年振りぐらいに合ったのだが、今思うと『落ち武者』のように変わり果てた息子を見て、息が詰まるほど悲しかったに違いない。それでも気丈に振舞ってくれた母は、本当に強い人だと今は分かる。が、当時の私には虚ろな人影としか、その母も目には映っていなかったのかも知れない。(続く)

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使命を帯びて…

精神病人の癖というのは、よく見ていると非常に興味深いものがあった。多く目にするのは、ひたすら同じ行動を繰り返すという癖をもった人。特に手を半永久的に洗い続ける人は多くいた。物凄い勢いで両手をこすり続けるもんだから、石鹸なんかあっという間に無くなってしまう!一時間で済めばいいほうで、中には可愛そうにこすり過ぎて手の『骨』が見えてる人さえいた。それでも手洗いを止められないこの人達は一体どうすれば救われるのだろう?と本気で考えさせられた。
その他にも、同じ言葉をこっちが怒りたくなるくらい繰り返し言い続けなければならないひとや、『水を飲め!』という、いわゆる幻聴が聞こえてきて、水道の蛇口に直接口をつけて、腹がパンパンになるまで水を飲む人もいた。変わったのでは、見えない銃を構え、「バンッ!」という声と共に発砲する人や、知らない国の言葉を平気で話す、お年寄りまでいたのである。
私はいつもこれらの痛ましい人達を見る度に、自分事として『人間とは何?人生とは何?』とか真剣に考えるようになっていった。こんな現実、ひど過ぎる!むご過ぎる!といくら憤っても足りない思いがしていた。健康だった頃の価値観はもはや大きく覆され、私は別人格の人間になっていた。
その時、私が苦しむ皆にせめて出来る事は、ここから生きている内に脱出して元気になって、この悲惨な事実をどんな形にせよ、世間一般に知ってもらう事だとこの頃心に決めたような気がする。(続く)

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地獄の始まり⑨

曲がった首は相変わらずだったが、思わぬ行為で一時的だが真っ直ぐになる事が判明した。それは『風呂』であった。患者は大変に不衛生な人が多く、湯船に良からぬ物が浮いている事もままあった。私はさすがに汚いので湯船にはつからず、オムツ洗いようの棺桶のような形をした湯だまりに全身を浸した。すると、何と首の曲がりが真っ直ぐに戻ったのである!
この病院に入れられて以来、嬉しいことなど一つとして無かったが、この時は「ささやかに」嬉しかったのを覚えている。すぐにまた曲がったが…。(続く)

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地獄の始まり⑧

しかし、今だからこそそう言えるが、当時は希望の光も見えず、ただただ厳しい事ばかりが続いた。希望が持てない理由もちゃんとあった。どう見ても周囲の患者達が治っていくとは思えないのである。それどころか『日本語』を話せる人を捜すのに苦労する有様だった。何十年もここに入院している人達もざらにいたし、俗に重度心身障害者と呼ばれる人や、『殺傷沙汰』を起こして入れられた人、中には『爆弾魔』までいたのだから驚きである。とにかくここは、病院という名を借りた重度の社会不適合者の収容所であった。そして私は紛れもなく、その『構成員』であったのだから、希望などさらりと露に消えた。私の未来は絶望的であった。(続く)

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地獄の始まり⑦

症状や薬でもうろうとしていた毎日だったので、この頃の記憶は余りハッキリとは思い出せない。しかし地獄さながらの日々の中、「生き抜こう」という決意は、状況に反比例するかのように強くなっていった。
それはもはやこだわる物が何も無い、肉体と精神の最下点に転落した私の『開き直り』であったのかも知れない。勿論、人間同士は比較のしようが無い存在なのだから、人それぞれ最下点は皆違うと思う。でも弱冠16歳だった私にしてみれば、この現状は今までの人生の最下点であったし、『死以外に怖いものは無い!』と言い切らせて余りある、そんな状況だった事は間違いないと思う。(続く)

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地獄の始まり⑥

ここでは『薬の時間』という、一日三回の大切な行事があった。私は首はまだ曲がっていたが、ようやく逃げ出すことを諦める決心がついていた。病識は未だ持ち合わせていなかったが、「薬を飲まない」などとは到底言える雰囲気ではなかった。看護師達が恐いのである。時々蹴られている患者も見たし、私の怖がり性分では飲まざるおえなかった。
ずらーっと患者がナース詰め所を先頭に並ぶ。男ばかり百人は優に超えていた。詰め所の前には、薄い四角い箱のなかに『水羊羹の空き缶』が敷き詰められており、そこに看護師がやかんで水を注ぐ。詰め所の外に出ているのは男の看護師だけで、その事がこの場所の危険度を現していた。自分の番が来ると水の入った容器を取り、看護師に『顔』を見せて薬を受け取って飲んだ。すごくカラフルな色をしていたと思う。
飲むとたちまち意識がもうろうとなった。消毒液臭い廊下で、何人かの患者が部屋にたどり着けず倒れていた。それを誰も見向きさえしていなかったように覚えている。(続く)

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地獄の始まり⑤

周囲を見渡した。当たり前だが異常そうな人が大勢いた。更に外を見渡すと、保護室と違って時計・水道・窓・蛍光灯などがあるにはあった。しかし集まりが終わって、少ししか開かない窓から外を見ると、頑丈な鉄格子が何本も取り付けられていた。それを見て私は急にここから出たい、という強い恐怖感に襲われた。今思えば保護室暮らしで『閉所恐怖症』のような症状が、新たに起こっていたのかも知れない。とにかく窓という窓を開けては、逃げられる場所はないか死にもの狂いで探して回った。しかし便所まで調べたが、一階には何処にも外に逃げ出せる窓は無かった。
それなら二階から飛び降りてでも!と二階に上がり、うろつく病人をかき分けて窓を調べ尽くした。
最後の便所の窓に鉄格子を確認した瞬間、絶望感が物凄い勢いで私を覆った。ショックのあまりその後何日間かの記憶が無い。看護師の話を後から聞いてみると、泣き叫んで「出してくれ!出してくれ!」と暴れ、大変だったと言っていた。(続く)

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地獄の始まり④

一日中裸電球の明かりしかない地下室なので、例の『レンガの穴』から無造作に出される飯らしき物だけが、時刻の推移を表していた。頭もおかしくなっていたし、もう昔の事なので、何日間くらいその地下室に居たのかは今でも正確には分からない。
一週間ほど経ったある日、看護師が入ってきて「部屋、変わるから」と言った。ここに来て以来、注射された部屋とこの保護室しか見ていなかった。外はどうなっているのだろう?と『曲がった首』のままやっと保護室を後にした。階段を登りながら、自由になれるのだろうか?などと考えていたが甘かった。通路を出た場所に重い鍵扉がまずあり、そこを開けて進むとまた鍵扉にぶつかった。その先はやっと病棟で、ちょうど朝礼のような事を、見るからに『危険人物』のような男達がやっていた。そこに私は訳も分からずに混じった。(続く)

PS:ところが、不思議な事にこれだけ後進的な病院だったのに、飯だけはすごく美味しかった(気がする)。ただ、首の曲がり同様、強烈な薬の副作用によるものだろう、唇の皮が1日1回はげる程口内乾燥が酷かったので、食物を飲み込むのがとても大変だった。それにいくら美味しい飯でも、一緒に食べてる『同類の異常者』の言動・挙動と、食堂中に充満している「異臭と消毒液」の入り混じった匂いには、それらをかき消してしまっていた。

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地獄の始まり③

そしてこれが一番困ったのだが、両隣から聞こえてくる『獣のような悲鳴』に私は恐慌をきたした。片一方からは「ギャ-ッ!グワーッ!ヒィーッ!」といった類の叫び声が、もう一方からは誰かを繰り返し呼び続ける声が、一日中聞こえていた。私は「出してくれ!助けてくれ!」と『レンガの穴』から外に向かって必死に叫び続けたが、誰も一向に来やしない。私は絶望と恐怖で発狂した上に、更に発狂しそうな精神状態になってしまった。
後で分かったのだが…「ギャ-ッ!」の方の部屋の人は見た目も妖怪のような姿をしていた。鼻が無く、両方の手の指の数を足したら、ちょうど8本しか無かった。まともに見ることさえ、最後まで出来なかった。(続く)

PS:まあ『毒を喰らわば皿までも』だね、これは。今振り返って見て、今ここにこうして巷で普通に生活出来ている事が、全くもって不思議で仕方が無い。『信じる者は救われる』と改めて人間を守ってくれている『大いなる存在』に自然と手を合わせてしまう現在の私の動向。それは至って当たり前の素直な行為である。
しかし‥やっぱ死ぬ以上にきつかった!今の私がもし当時16歳の私に「タイムマシン」に乗って会いに行けたら、励まして今の「この」状態を見せてあげる事が出来たら‥それは当然不可能な話だが、でも私は今その『希望』を多くの苦しんでいる「病友」にこのブログを通して伝える事が出来るのだ!頑張ろう、みんな。

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地獄の始まり②

信じ難い事ばかりで驚いてる暇も無かった。まず、枕の上の和式便器には、水洗式であるにも関わらず「ノブ」が初めから無かった。用を足しても汚物を流せないのだ。たまーに勝手に水が流れる事があったが、それは見回りの人が通った時だけで、自分から頼む事は出来なかった。そしてこの部屋の鉄扉には鍵が掛かってる上、こちら側には「ノブ」がこれまた無かった。
意識が幾分ハッキリしてくると、呼吸がひどく苦しい事に気が付いた。それもその筈、「首」が後ろ向きに引っ張られるのである!力を目一杯入れておかないと、首を真っ直ぐに保てない。あまりに息が苦しくて泣き出しそうになった。(続く)

PS:それまでシャバにいた自分だったから、この状況と環境は当然『驚愕の連続』であった。でも考えてみれば状況把握能力が、発狂によって大きく失われていたことが、皮肉にも「地獄」を生き抜けた要因だった。現実が「曖昧」になっていたのである。それでも今居る場所も全く分からないし、外部との連絡も途絶されていたし、「首」は曲がっていたし、もう滅茶苦茶を極めていた。正にB級ホラー映画を完全に凌駕した状況であった。因みに「首」の曲がりは、薬の過剰投与の副作用であった事は今の主治医が教えてくれた。

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地獄の始まり①

と、こうして話は『青春闘争記①』の冒頭へと繋がる。注射を打たれて記憶を失い、気が付いたら『保護室』と呼ばれる部屋に閉じ込められていた。本当に殺風景な独房にも見劣りする、四畳半程の地下室だった。私はトランクスとシャツを着てベットに寝かされていた。状況がほとんど把握出来ず、頭も混乱していた為、何か悪い夢でも見ているような気分だった。
そして当時の私にはもう守るものが何も無かった。頭は発狂し、行動の自由も精神の自由も失った。将来も消えうせたと感じたし、思考パターンも滅茶苦茶に破壊されていた。この世から私が消えても、何一つとして困る事は無い、有意義ではあっても…と正直に思った。(続く)

PS:ただ、この様な最低最悪の状況におかれても『完全な絶望』という感情は浮かんで来なかったのは、大変不思議だ。しかも命を絶つ事よりも、こんな目に遭わせた全てに対して「絶対に報復してやる!!」と怒りの火の玉になっていた。その「怨念」たるや凄まじく、健康だった頃の基礎概念の全てを完全に覆してしまっていた。そして発狂した時のエネルギーも今考えてみれば、この莫大な怒りの感情だった。人間としての元気な頃の「プライド」が自殺を考えさせなかったのだろう。この先、このプライドには散々苦しめられるのだが、死んだらお仕舞いということを考えたら、命を救ってくれた「プライド」には、やはり感謝せねばならないと思う。

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発狂…後②

外は雪が舞っていたようだ。私がこの時痛切に感じた事は、本当に頭が狂ったら、実は何も出来なくなるという事実だった。他人を殺すなど以ての外、身体も思ったように動かせないのである。頭も何も考えられず、ただひたすらうろ覚えの『警察署』に向かって歩いたようだった。
後で聞いたのだが、この時の私の服装は真冬であるにも関わらず、ジャンパーの下にTシャツ、短パンに叔父の革靴を履いていたらしい。警察署に着き、実際には30分以上かかったのだろうが、私の感覚では『5秒後』に父親が飛んで来た。かすかな記憶では、パトカーの後ろを父の車に乗って、精神病院に向かったようだった。途中の道のりなど全く覚えていなかったし、濃い霧の中でゆりかごに乗っている様であった。
病院に着いたらしく、大人が5~6人いる白い部屋にいた。全員で私を押さえつけにかかり、その中の一人は大きな注射器を持っていた。私は必死に暴れて何人かが床に転んだりしていた。押さえつけていた大人の中に父も加わっていたので「何でお前が押さえつけるんか-!」と私は怒鳴った。父の困惑した悲痛な表情は、今でも何となく記憶に残っている。(続く)

PS:私の知ってる病友達の中にも、この様な体験をした人が何人かいる。全く持って「修羅場」である。犯罪者でもないのに。

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発狂…後①

翌日、ふと自分の周囲を見渡すと、叔父の大切にしていた医学書が、何十冊も引き裂かれて散らかっていた。私がしでかしたらしい。昨夜の注射の影響で、ほとんど記憶が曖昧で、途中の時間が飛んでしまっていた。
そしてその何時間か後、ついに一生かけて溜め込んだ『核爆弾的怒り』が一気に噴出した!
時にして平成元年1月15日。敵に向けて撃ち込もうとした爆弾が、自らに向かって暴発し、いわゆる『発狂』した日である。
ふと我に返ったら、手が血まみれで血がしたたっており、物干し竿を持っていた。周囲のガラスというガラスは割れ、電話も粉々になっていた。ほんの少しだけ辛うじて残った私の理性は、警察に出頭することを私に促している様であった。(続く)

PS:この時、一時的ではあるが失明もしていた。それまで辛うじて持ちこたえていた「心のダム」が、前日の薬物投与により一気に崩壊してしまった。事前にこういう結末が来る事はある程度予測は出来ていたのだが‥まさかここまで酷い事になろうとは、流石に思っていなかった。「切れる」という言葉を簡単には使えない、そう思った。

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発病前夜⑨

叔父と夕食をいつものようにレストランにとりに行った。この日、ひどく錯乱しており、冷静さがほとんど無かった。隣りのテーブルの客の声が耳に止まった。「俺をあざ笑ってやがる!」当然そんな事は言って無かったのだろうがその瞬間、今まで人前で決して出てこなかった『怒りの人格』が、関を切ったかの様に表に姿を表した!叔父が静止しても止まる状態では無かった。店内に響き渡るほどの罵声を上げ、大暴れした。叔父がやっとの思いで押し留めて、叔父の職場でもあるあR病院の精神科に連れて行った。そこでも罵声は止まらず、頭の中は真っ白に近かった。
しばらくしてして抵抗を止め、ベットに寝かされた。安定剤の注射をされる時「僕は何も悪い事をしていないのに…」と、大声で人前で泣いた。看護師さんも泣いていた。
その後、どうやって叔父の家に戻ったのか、薬のせいで全く記憶が無かった。でもこの出来事は、これから始まる『いばらの道』の、ほんの入り口に過ぎなかった。(続く)

PS:何でこうなってしまったのか?自分に非があろうとは当時の私には全く考える事すら出来なかった。成り行きでなったとしか思えないほど、全てにおいてがんじがらめで自分の人生の決定権をまるで持ち合わせていなかった。人間の無力さを痛感していた。

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発病前夜⑧

折しも昭和天皇が危篤になられていた。ぼーっとした私の瞳には、いつも天皇の脈拍とか血圧とかが映っていた。抜け殻の様になった私には、社会・両親・不良等に対する激しい憤りのみが残っていた。彼らに『かけら』すら出せなかったこの『怨念』を、本当に『キレた』時に彼らを皆殺しにすることで晴らす事が出来る。ただひたすらに、そう信じて止まなかった。そこには一塊の狂信者になり果てた私がいた。そしていよいよ運命の時を迎える事となる。(続く)

PS:昭和が終わり、平成が正に始まろうとしていたこの時、私にも「節目」が訪れようとしていた。振り返ってみれば平成は私にとっては闘病だけの期間であった。しかしこの段階では、この「心のねじれ」が今後にどれだけの災いをもたらすか想像はとてもつかなかったし、本当に『切れる』事の言葉に表せない程の恐ろしさを、知る由もなかった。むしろ本文で書いている様に、どこかで『切れる』事を現状の苦しさの余り望んでいた風もあった。どちらにしても、もうどうにもならない「大きなうねり」の中に取り込まれていた当時の自分。かけがえの無いその待ち望んでいる「瞬間」が良くも悪くもすぐそこに来ている、それが私の昭和の終わりであり、「正常」な日々の終わりでもあった。もう後戻りは出来ない、待った無しの状況だった。

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発病前夜⑦

私はこの頃、街に出掛けるにもあまりに対人恐怖がひどかったため、バスに乗れず長い道のりを徒歩で目的地まで行っていた。しかし、自分のことを病気だとは思いもせずに、ちょっときついが思春期とは皆この様なものだろう、とぐらいにしか考えていなかった。他にも家族の、特に母との電話ではしばしば激高していたが、叔父が寛容な人だったので福岡の生活は上手く行くかに見えた。
しかし、現役の受験生であった私にとって、三月が近づく事は大変ストレスのかかる事であった。学校に行きたくても行けないのだから、どうしようもないのだが、それでも何度かもう一度学校に戻ろうと思ったりもした。でも今思っても不思議なのだが、将来を暗示していたかの如く、高校生になった自分の姿というものが、何故だか頭に浮かんだ事は、一度として無かったのである。
この年の秋の終わり頃、幼少期に親に良く遊びに連れて行ってもらっていた神社に、歩いて行ってみた。はつらつとしていた、まだ心が一つだったあの頃が、もう手の届かない所に行ってしまってると感じた。そして心の荒みと共に、だんだん季節感も無くなってきだした。昼夜逆転の生活となり、過食をし、それでも毎日下痢するから太る事も無かった。いよいよ佳境に突入してきた、と自分でも感じていた。そして冬が来た…。(続く)

PS:およそ、この後「何か」が起こるであろう事は、想像に難くなかったが、かといってどうする事も出来ない無力な当時の私だった。

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発病前夜⑥

叔父は当時、精神科の一年目の医者で福岡に住んでいた。まだ独身で大変おおらかで優しい人だった。私は学校の事が気になりながらも、福岡でゲーム三昧の日々を送り始めた。この頃、対人緊張は相当悪化していた。『殺人空想』に浸る時間も長くなっていった。現実の『正常な自分』はだんだん失われつつあり、両者の比率は悪化の一途をたどっていった。
それでも、私は勉強は好きだし、大部分の友達が本当に嫌いでは無かったので、皆に置いて行かれる事には物凄く焦っていた。そこで思い切って中三の夏、思春期内科という聞き慣れない科のある病院に一週間ほど勇気を出して入院し、秋から学校に復帰するプランを立てた。そして苦戦の末、九月初めに佐賀に一旦帰った。
H中に久々に登校した。色んな友達が口々に励ましてくれた。凄く嬉しかった。でも、もう精神状態の二極化は、その励ましでさえどうにもならないほど進んでいた。自分の中の二つの人格が、全く調節出来なくなっていた。暫くして、私はまた叔父の家に戻った。正式な学生としての経験は、これが最後になった。

PS:こういったストレスからか、とにかく無茶苦茶な量、過食していた。叔父もまだお金に余裕は無かったのに、何時も食べたいだけ食べさせてくれていた。

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発病前夜⑤

相変わらず頭の中では、血の匂いがするほど人を殺め、表面的には生徒会に参加するほど真面目な自分がいた。初めは表面人格が保てていたのだが、月を重ねるごとに『二つの本当』が乖離し始めてきだした。普通の友達との付き合いにも相当な意思統制が必要になり、とても疲れるようになってきた。だんだん学校に行くのがきつくなってきた。
私はゲームが好きだった。ジャンルでいえばシュミレーションゲームが大好きだった。今でもはっきり覚えているが、中学三年の五月、私は歴史物のシュミレーションゲームを買った。常に精神が疲れていた頃だった。そのゲームに夢中になるにつれ、現実が何もかもばかばかしくなってきた。私は登校拒否を始めた。両親とも折り合いが悪くなり、赤ん坊の頃から大変可愛がってくれていた叔父の家に居候する手筈となった。(続く)

PS:空想は相当過激になって、問題だらけの現実に行き詰る度に、今思えば「自分がヒーロー」のこの世界に「逃げ込んで」いた。この空想世界に何の生産性も無いと今なら分かるのだが、当時は虜になってしまっていた。しかしいわゆる「普通の自分」でしか周囲の人達に接する事は出来ない。だからこの「二面性」を使い分けする私は、周りから見たら至って普通に見えていたのだろう。本文中にも書いたが、この精神操作は大変疲れる。破局をはらみつつ学校生活からゲームを理由にして逃げた。家族からも逃げた。逃げると言っても現実的に場所は一箇所しかなかった。K叔父の所である。この叔父こそが、今私が働かせて頂いているクリニックの院長なのであるが、当時の私にはそんな未来が訪れるとは、まるで想像がつく筈も無く正に「お先真っ暗」状態だった。

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発病前夜④

見た目には『普通の子』が起こす痛ましい事件が、最近やたらマスコミで報道されている。皆、世間の人達は「何故あんなにいい子が…」と不可解に感じていると思う。しかし、私は今になって分かる事がある。どんな子供の心・精神も僅かな手掛かりを通してしか表面的には見えてこないという事だ。現に当時の私もそうだった。
前にも書いたように、表面的人格、言わば普通の中学生としての人格は当然保たなければならないものであった。先生・友達とはこちらの人格でしか付き合えないからだ。しかし内面的人格も自己を存続していく為にはどうしても必要だった。この相反する二つの人格が中学生の私にもしっかり見てとれた。初めは何とか使い分けは上手くいっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。どちらの人格も本当の『自分』なのであるが、両者の違いが著しい為に自らが普通の人格の時に、もう一方の破壊的人格が心をよぎると、自分が「偽善者」に思えて仕方が無いのである。私はこんなに心の汚れた人間なのに、友達に「頑張って!」とか「大丈夫だよ」とか言ったりしている。そんな自分が堪らなく許せなかった。(続く)

PS:表面に露出しない「問題人格」は、長い付き合いの友人でさえ見抜く事は難しいと思う。本音と建前、これは人間として産まれたら、誰しも必ず持ち合わせる。しかし「重大事件」に繋がる様な多面性は、トラウマ等が絡んでおり周囲が気付く事は何かが起きてから、という手遅れ状態になりやすい。何とか解決策を見出したいものである。

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発病前夜③

私はそれでも見た目には、依然として『優等生』であった。友達も多く、先生達は何の問題も無い子と見ていたようだ。私も自然のうちに表面上の『優等生』の人格と、内面の『殺人鬼』の人格を、時と場合によって使い分けるようになっていた。
こんな風だから、相変わらず現実的な自信は微塵も無かった。私は『対人緊張』を起こすようになった。この時点では全く私も周囲もこんな些細な事が、すぐ先の将来に大変な病気に繋がるなどとは思う由も無かったのだが、今思えば「サイン」だったと言ってよい。そしてこれからいよいよ私の人生は、とんでもない方向へと全速力で突進する事となっていく。(続く)

PS:人間の「多面性」とでも言えるものか?私は今度の人生では何故か人に手が挙げられない。意見も本当には出来ない。そんな「欠点だらけの自分」と大きな物を犠牲にしてでも決別したいと、何時も願って止まなかった。その楔からは俗に言う「切れる」よりもっと深い「マジ切れ」した時に解放されるのでは!?と本気で信じ始めたのも、ちょうどこの頃だったかも知れない。でも自分で言うのも変だが、どの人格も至って「純粋」な心のもとに形成されたものだった様に今は思っている。

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発病前夜②

自信も無い私は、しかし依然としてプライドだけは高かった。そのプライドを満たすには現実は厳しすぎた。何時も不良にからまれるのではないかと、おどおどばかりしていた。それがいつの頃からか『やられるまえにやってしまえ!』という、過剰防衛型の暴力空想を生み出す事になって、その空想の中で自分を癒すようになっていった。
何時からかはハッキリしないが、私は頭の中で人を殺すようになっていた。何時も自分が暴力に合いそうな気がしてくると、人を殺した。金属バットで顔面を思いっきり殴ったり、のど元にかじりついて食いちぎったり、校舎の三階から頭を抱え込んで飛び降り、一階のコンクリに叩きつけてかち割ってみたり、その他ここには書けないような『殺し』の数々を空想し、そしてそれが何時の頃からか快感になって癖になっていった。五教科の中でも余り好きではなかった英語授業中などは、何時も空想にふけっていた。するとだんだん現実と空想が乖離し始めてきた。現実には不良に文句の一言も言えない自分が、頭の中では彼らを殺めまくっているというこの矛盾は、到底同一人格の中に収まりきれるものではなくなっていった。(続く)

PS:以前にも書いた事が何回もあったが、人間の内界は恐ろしく広い。この時期の私は空想している時だけ「私」であった様な気がする。一方的に流れ込んでくる「怨み・怒り」の勢いは物凄いものだった。空想世界に浸っていると、聴覚・視覚、そして時間までもが吹き飛んでしまっていた。それ位甘美な世界であり、同時に自分でも「決定的破滅」が近付いている気配を何処かで感じていたのだが‥。

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発病前夜①

私は色々あった小学校時代を終え、佐賀市立H中学校に入学した。この頃から、露骨に皆と行動を異にする、いわゆる『不良』と呼ばれる同級生が出現し始めた。私は彼等を異常なほど意識した。元々私は恫喝・暴力等に大変弱かった。と言ってもただ恐れていた訳ではなく、良かれ悪しかれそれらの行為に過剰に反応して、精神制御が出来なくなるのである。『不良』が周囲に増える事は、私にとって平常心を失わせる事となっていった。中学生になると、本格的な部活動が始まる。私は今思うと滑稽だが何故かテニス部に入部した。もう、正直言って自分らしく生きていく事は叶わなくなりつつあった。そして勉強よりも部活動よりも、自分の最も苦手とする『不良』の事ばかりが頭を占めていた。しかしそれは私の内面の事であり、表向きは「友達の多い、勉強も運動も出来る優等生」であった。でもその評価は私に何の自信も与えてくれなかった。むしろその『二つの顔』こそがやがて訪れる精神病発症の要因になったと言っていいと思う。
この頃から、私の精神構造に変化が見られ始めた。己がどうしても『実行』することの出来ない行為を、心の中で空想する様になっていったのである。年齢が思春期に達しており、精神エネルギーが凄い勢いで増幅する中、現実世界ではけ口を持たない私は、空想の中でしかそのエネルギーを発散出来なかった。(続く)

PS:このテニス部の同学年のキャプテンだったH・S君が、カルシウム不足なのかこれまた「怒鳴る」奴だった。怒鳴りだすと病的に続くので辟易してた。ある時実は私の勘違いだったのだが、彼が怒っていると思い込んで、後輩や仲間の手前を考え、地べたに『土下座』して謝った事すらあった!

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青春闘争記⑩

私はプライドが滅茶苦茶高かった。しかし、友達との交流における大切な能力「自己主張をする」という事が、トラウマで全く出来ないに等しかった。その上常に自信が無かった。勉強も運動も人並み以上に出来ていたのに、何故か全く自信が無かった。自信を付けようにも、その方法が分からなかった。なんで皆がそんなに堂々と自己主張しながら生きられるのかと、羨ましくって仕様が無かった。周囲の評価と自分の評価は、正反対だったのである。
しかし、この2年間で『生涯の親友』F君と出会った。最初彼は通学路が一緒というだけで、私にプロレス技をかけて来たりして、乱暴な所があったので余り好きではなかった。でも彼とはその後何でも理解し合え、お互いに「歯に衣着せぬ」会話ができ、後に私が病気の事を家族以外の人に初めて話す事になるのも彼だった。
とにかく私は多くの内面的な問題を抱えたまま、更に波乱万丈の中学時代へと突入することになった。そしてここまでの私に選択肢はあったのだろうか?と考えてしまうほど、がんじがらめの人生だった様に思えて仕方が無かった。(続く)

PS:この頃には自分のウィークポイントは、高圧的人物の「恫喝」であると分かり始めていたので、如何にそういう場面に出くわさないかに、行動の機軸を置いていた。それでもそれは避けられる筈も無く出くわしてしまうもの。その度に自尊心が酷く傷つき、寝られない夜等に歯軋りして彼らを憎む事しきりだった。

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青春闘争記⑨

佐賀大学付属中学校の試験を私は受けた。試験が終わった後、学校に戻らなければいけないと半分知っていながら、一緒に受験した友達数名とデパートのゲームセンターに寄ったりして、学校にはすぐには帰らなかった。暫くして家に着くと、母が「先生がすぐ学校に来いって怒ってたわよ」と言うのを聞いた。慌てて学校に行くと、担任の先生が猛烈に怒って待ち構えていた。
私は何故か人前で涙を見せる事に、命に替え難い程の抵抗感を幼少期からもっていた。クラスがしーんとしている中、先生の罵声にただひたすら泣く事を我慢した。必死に必死に我慢した。今振り返っても修羅場だった。でも結局、すごく悲しかったのに泣かずに無理押しした。私のこんなすさんだ内面は、周囲の人達にはほとんど分からずじまいだった。そして自分でも事の重大さは、本当には分かっていなかった。
結局、その分かれた元親友とはその後も全く話す事さえせず、皆が気づきようも無いまま普通に振舞っていたが、内心はひたすらびびりまっくって、怯えまくって、この小学校を卒業した。
今でこそ冷静に振り返れるが、発病後つい最近までこの時期の話は全て『御法度』だった。思い出そうとすると、脳が興奮して混乱して、全身の身の毛がよだち、大暴れして辺り構わずキックやパンチで物を壊しだす、といった事もざらにあった。限度を超えた怒りによって、訳が分からなくなってしまっていたのである。それぐらい今思い出しても苦しい時期だった。(続く)

PS:涙を見せる事、それは俺、そして「元気な時」の親父の『禁止動作』だったのである。

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青春闘争記⑧

仲たがいした親友には、信頼していたので大袈裟な嘘の自慢話を沢山していた。幼稚園の頃、友達と喧嘩をして、パンチで相手の内臓を破裂させた、等と現実の私には及びもつかない幼稚な嘘が、あっちのグループの人達に漏れやしないか?漏れたら袋叩きにされるのではないか?私のリーダーとしてのメンツがぶち壊されるのではないか?臆病者の本当の自分がばれるのではないか?等と心配しだすと、生きた心地がしなかった。でも家にゆとりは無く、人のひそひそ話が全部私のことを言っているように聞こえて、毎日精神が衰弱していった。(続く)

PS:恐怖は恨みに変わり、恨みは怒りに変わる。この頃の私は「虚実」状態であった。それ故自信が全く無い子供だった。それに他人から稀にだが恫喝されると、びびりまくるトラウマも強かった。そのくせプライドだけは天に昇るほど高かった。これで折り合う筈が無い。この頃はまだ「危害妄想」は余り出ていなかったが、どうにもならないこの「うっぷん」は思春期を迎えるにあたり、風船の様に膨らみ始めていた様だ。後のビッグバンに備えて‥でもそれに気付いていたとしても、どうにもならない濁流に運命が木の葉の様に流されていた。選択肢が今考えても見当たらない、なるようになるしか無かった。
ところでこのS君、確か精神科医に将来なりたいと文集に書いていた記憶があるが‥俺、診察してくれんかね?今思えばホント2人とも「マセガキ」だったね。

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青春闘争記⑦

そして、私がこれまでの人生で最も印象に残っている小学5、6年生の時期を迎える事になる。このクラスでの出来事は、些細なことまで35歳になった今でも克明に覚えている。5年7組にクラスが決まり、新しい学期が始まった。またこの頃、私の家の家庭環境が混乱し始めていた。それまで威厳に満ちていた父が鬱がちになり、母親も心臓を悪くし入院したりした。行動は自由に取れるようになったけれど、学校での悩みを聞いて貰えるゆとりが、両親に無くなったのだ。そして、すごく親しく、給食もいつも一緒に食べていた親友に、私は親から又聞きした彼が一番気にしていた事を、彼に何となくしゃべってしまったのだ!彼は数日後、別のグループで給食を食べるようになった。口も一切きかなくなった。彼が行った別のグループは、強い人が沢山いるちょっと怖いグループだった。私がいるグループと彼の行ったグループが大きく二つに分かれて給食を摂っていた。誰も気づかなかっただろうが、私は常に内心びくびくおどおどしていた。その頃でもまだ成績は良かったし、運動も得意だった。でも自信なんてこれっぽちも無かった。(双方のグループが喧嘩になったらどうしよう!?)そんな強烈な不安が、私の心を占領していた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、生きた心地がしなかった。
家庭も、学校も行き詰まり、元々冷静さを欠いたゆとりの無い精神が、尚の事ひどく圧迫され始めた。そこでその緊張と恐怖が、私を思いもよらぬ行動に走らせた。
彼が大切にしていた体操服を袋ごと盗んで自宅の庭に埋めたのだ。今思えば凄いストレスがたまっていたのだと分かるが、当時はもう自分でも何をやってるのかさえ見当もつかずに、土砂降りの雨の中、懸命にシャベルで穴を掘っている「ひどく悲しい」自分がいた。毎日毎日の極度の緊張感が体調の不調を招き、その頃から下痢が止まらなくなってもいた。(続く)

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青春闘争記⑥

そんな中、一人の友人が出来た。読書の好きな物知りの子で、私は彼から『松下村塾』の存在を学んだ。大変偉そうであるが、学問の事で自分が知らない事を他人から教わることは、当時は皆無であったので、自尊心に衝撃が走った事を良く覚えている。なにせ『常に私は誰よりも世間の物事を理解していなければいけない。』そう本気で自分に言い聞かせていたのだから…。(続く)

PS:このK君は読書家だった。情緒に不安定さを持っていたが、色々な事を知っていた。中学1年生の時他県に転校してしまったのだが、それまでは良く遊んだ。しかし彼もまた私とは違ったタイプの精神的病に現在かかっているらしい。感情が必要以上に多感な事は、どうも人間にあまり良い結果をもたらさない様だ。特にそういったタイプは思春期にトラブルを起こし易い。感情に現状が付いて行っていない。かく言う私もそうであった様に、精神はバランスが大切なのだと今更ながらに痛感する。それは「生い立ち」に問題がある場合がとても多いと思う。果たして「もし、育てられ方が正しければ~」の仮定は存在するのだろうか!?そう思いたいのはやまやまだが事実は「今、この現状」しかない。「IF~」は空想論でしか所詮ないのだ。依存すれば依存するほど、妄想の世界に入って行くだけで、虚しいったりゃありゃしない。今を生きる妨げにしか所詮ならない。

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青春闘争記⑤

私の小学校は二年間に一回、クラス替えがあった。三年生になって私は三年七組に進んだ。この頃から今思えば精神病に将来なる事を暗示する幾つかの出来事が起こり始めていたように思う。
このクラスにかなり権勢を振るう友達がいた。ほとんどのこのクラスの男子が彼の言う事を聞いていた。彼は何故だか私の事が気に入ってるらしく、毎日学校が終わると「野球をするから来てくれよ」と誘ってきた。彼の高圧的な振る舞いに恐れをなしていた私は、何かかにか理由をつけて彼の誘いを電話で断った。すると翌朝、いつも彼から「昨日何故来なかった!今日こそは来いよ!」と怒鳴られた。とうとう断りきれなくなり、母の出番となった。母が彼に電話で「健一郎は具合が悪いから今日は行けないわ」と言ってくれた翌日、「おふくろを電話に出させるとは卑怯じゃないか!」とまた怒鳴られる始末であった。
こんな風だから、夏休みとかに学校に行きたくないと、母に対してまた暴れた。しかし不思議な事に父の前では、全くかんしゃくを起こさなかった。父に言うと怒鳴られそうで怖かったから、弱い、泣きべその自分は消えてしまったかのように、普通に振舞ってしまう癖がついていた。この性癖は『二面性』という点で、後の統合失調症発症の大きな要因の一つになったであろうと思われる。

PS:彼は身体が私とは比べ物にならないほど大変弱かった。しかしそんな彼が威張ってたという事は、人間の強さとは自分に対する「自信」なのだとハッキリ分かる良い事例だ。

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青春闘争記④

小学校は佐賀市内の『T小学校』に通う事になった。市内で当時一番生徒数の多い小学校だった。私は一年一組になった。そしていざ勉強を習い始めると、簡単過ぎて大変退屈だったという思い出しかない。むしろ記憶に残っているのは、友達関係の方であった。
私はその頃良く嘘をつく癖があった。夏休み前、ある友人に「僕のおじいちゃんの家は、カブトムシやクワガタムシが百匹も二百匹も取れるんだ!」と根も葉もない事を言ってしまい、彼が「それなら僕に取って来てちょうだい」と言い出したからさあ大変。夏休みが終わるころ、母に「学校に行かない」と泣いて暴れた恥かしい思い出がある。
他にも色々な事を、すぐ誇張して言う癖もあった。負いきれなくなった問題の後始末は、いつも母がしてくれていた。(続く)

PS:嘘つきは私の特徴であった。調子に乗ってと言うか、話がどうしても肥大してしまう。この時もこの嘘のせいで小学校を卒業する位まで、この友達と廊下で会うのさえ怖かった。この頃から何かとトラブルが考えてみれば多かった。「本音」を言えない、虚偽の自分を振る舞っている事が当たり前だった。自信の殆んど無い自分であることは、嘘つきにつながってしまっていた。自己PR出来ない子供だった。

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